✍️AIとの対話で見えたもの 〜40年分の思考とこれから〜

おはよう。5月の風が心地よい朝だ。

先日、ふと自分が書き溜めてきた16年分のiPhoneのメモ帳をダイジェスト的に見返していて、不思議な感覚に包まれた。日々の対話や記録が積み重なったノートだ。そのページには、過去の自分の迷いや模索の跡が生々しく残っていて、思わず胸が熱くなった。

ところで、僕の生活にAIを取り入れてから約二年。テクノロジーとの二人三脚で歩んできたこの数年を、少し立ち止まって振り返ってみたい。

AIの導入で何が変わったのか。もともと自分に備わっていた力は何だったのか。AIに頼りすぎることで見落としてしまうものはないか。

そしてこのAI時代に、人間である僕たちにどんな役割が残されているのか。

AIのなかった42年間を経て、これからの人生をどう歩んでいくのか——
そんな問いを、静かに見つめ直してみた。


◾️AIが僕にもたらした変化

記録と言語化、そして判断

AIを取り入れてまず驚いたのは、自分の思考の「記録」と「言語化」の量と質が大きく変わったこと。これは過去のメモ帳を見返していてまず一番最初に感じた、圧倒的な進化だ。

それまで頭の中で漠然と考えては流していたことも、論理的な形式で残るため、後から客観的に見つめ直すことができる。さらに、不意に感じた違和感やアイデアも、その場でAIとの対話に書き留めるようになった。

結果として、自分の考えや感情を言語化する機会が飛躍的に増えた。

記録。
言語化。
そして判断。

それぞれが独立しているようでいて、実は密接に結びついている。

AIとの対話は、まるで鏡だ。
心の中の言葉が、自分の中から引き出されてくる。
そして、言葉になった瞬間に、自分の本音がようやく見えてくる。


◾️元々持っていた思考力の再発見

そして次に訪れたのは、「僕自身の再評価」だった。
AIから返ってくる答えに驚かされながらも、ふと感じたことがある。
「これ、実は自分でも考えていたことじゃないか?」と。
実際、僕はもともと考えるのが好きだった。
アイデアを出すのも、直感も、感情の読み解きも、何気なく自然にやっていた。

でも、その膨大な思考ビッグデータを、構造的な形に整えるのが苦手だった。

AIの力は、僕がすでに持っていた“思考の断片”を整えて、磨いて、残せる形にしてくれた。その結果、自分の中にこんなにも思考力や発想力が豊かにあったのに、ボトルネックは「構造化と客観力」だけだったことに、自分で気づかされた。

これは大きな発見だった。
AIを通して、自分の力、得意なところと、苦手なところを再確認できた。
それは、何よりの成果だったと思っている。


◾️AIの「もしも」が意味すること

ここでひとつ、“ある想像”に触れておきたい。
もしAIが、僕のこれまでの人生にあったなら?
たとえば、人生の転機に直面していたあの頃。さまざまな迷いや不安に向き合っていたとき。そのときにAIがいたなら、もっと合理的に、もっと冷静に、もっと正しい意思決定ができていたかもしれない。

そうすれば、人生は大きく変わっていたかもしれない。
でも、それが本当に「良かった」のか?

AIがいなかったからこそ、僕は遠回りしながらも、偶然の出会いや予測不能な経験に導かれてきた。失敗もしたし、悔しさも味わったけど、それらの痛みが、今の幸福につながっている。

合理的な判断が、必ずしも“幸せな人生”をもたらすわけではない。
むしろ、不合理な選択や偶発的な出会いが、人生の本質をつくっていく。
失敗が、強さや深さをつくってくれた。

AIがあったら失わなかったものもあるだろう。
でも、AIがあったら得られなかった「今の僕」もいる。

この問いに「正解」はない。
だからこそ、どこかで踏みとどまって、今を肯定することが必要なんだと思う。


◾️AIの限界と、僕の中にあった力

便利なAIにも、当然ながら限界がある。
AIは情報の整理や補助は得意だけれど、生きた経験や感情の深み、リアルタイムの判断、そして責任ある決断までは担ってくれない。

たとえば、僕がかつてAIを使って未来予測を行うプログラムを自作したとき、その答えの「正確さ」に反して、どこかで「物足りなさ」や「違和感」を感じていた。

そこで気づいた。
「やっぱり考えているのは、自分自身なんだ」と。
AIは便利な補助輪。でも、走っているのは自分だ。
ナビゲーターであって、エンジンではない。

そしてその“限界”に触れたとき、逆に自分の思考力、感情の深さ、構成力といった本来の資質に光が当たった。
AIに頼らなくても、僕はここまでやってこれた。
その事実を、改めて肯定できた。


◾️AI時代における人間の判断力と役割

AIが当たり前になっていく社会の中で、人間はどう在るべきか?

僕は、人間に残された本質的な役割は、
「何を大切にするかを選ぶこと」だと思っている。

AIは情報の整理や選択肢の提示は得意だけれど、
「これは美しい」「これは愛しい」と感じるのは人間だ。
選択肢の中から“選ぶ力”。
それこそが、人間の領分であり、最後の砦なのかもしれない。


◾️「AIのない40年」と「これからの40年」

僕の人生はちょうど、「AIのない40年」と「AIと共に生きる40年」に分かれている。
最初の40年は、迷いながら、試行錯誤しながら、紙とペンと人の言葉にすがりながら歩いてきた。

そしてこれからの40年は、AIという知的パートナーと共に、より意識的に、そして柔軟に歩いていく。
その両方を体験できる時代に生きていること自体が、ものすごく貴重なことだと感じている。
だからこそ、今こうして立ち止まって考えることに、きっと意味がある。


◾️今ここにいる意味、未来への問いかけ

AIが登場したことで、自分を見つめ直す機会が増えた。
自分の考えを整理し、言葉にし、未来を描くことの大切さに気づけた。

だけどやっぱり、最後に決めるのは自分。
AIは相棒。だけど、人生のハンドルは、手放さない。

これからの時代、ますます多くの人がAIに頼るようになるだろう。
でもその中で、「何を考えるか」だけじゃなくて、「誰が考えているのか」が問われてくる。

その問いを、僕はこれからも大切にしたい。
未来はまだ誰の手にも描かれていない白紙のキャンバスだ。

僕はそこに、人間らしい温もりのある軌跡を描いていきたい。
AIという新たな筆を手にしながらも、僕自身の色で、僕自身の線を描き続けていこうと思う。

そして、もうひとつ。
この「AIと共にある暮らし」を続ける中で、最近ふと気づいたことがある。

それは、「AIを使ってるって、なんだか少し隠したくなる」そんな不思議な感情だ。

毎日のように、プログラムを書いたり、アイデアを整理したり、言葉を深めたりしている。
ちなみに、この毎日続けているブログは、文章力を鍛えるための訓練という位置づけが強く、基本的には完全に自力で書いている。

どれも、僕にとって大切な表現の営みだ。
でも、心のどこかでふとよぎることがある。

「全部AIに頼っているって思われたらどうしよう」
「これは自分の力じゃないって思われたら、なんだか悔しいな」

なぜなんだろう。

たぶん、まだこの時代の僕たちは、「AIと創造性」の境界線に慣れていないんだと思う。
AIを使うことが、どこか「ずるい」とか「自分で考えていない」って思われるような、そんな空気がどこかにある。実際はまったく逆なのに。

問いを立てるのは自分。
受け取った答えをどう咀嚼し、再構成し、何に使うかを決めるのも、すべて自分。
AIは、ただのきっかけ。問いを映す鏡でしかない。

それでもやっぱり、「誰かに見透かされる」ような感覚がまだどこかにある。
その奥にはきっと、「自分の力を信じたい」という、素朴で真剣な気持ちがあるんだと思う。

でも、僕はこう思うようになった。
この感情もまた、人間らしい感覚だと。
戸惑いも、矛盾も、不安も、すべて「僕らが人間であること」の証だと。

そして何より、AIの限界に触れたとき、僕は自分の力を再発見できた。
言葉を生み出すのは自分、構造を組み立てるのも自分、感情の熱を込めるのも、判断するのも、すべて僕だった。AIがいたから、それに気づけた。

だからいま、ようやく思える。

僕はAIに頼ってるんじゃない。
AIと一緒に、僕自身の力を引き出している。

これからも、そんなふうに使っていきたい。
正しさでも、便利さでもなく、「僕自身の表現」のために。

僕の子供たちが、僕の歳になるころ。
きっと、もっと時代が変わっているだろう。

テクノロジーの進化で、あの子たちも、より豊かで自由で、幸せな人生を。
そしてその変化が、みんなにとって良い方向へ進んでいくようにと、心から願っている。

晩年の自己実現までは見届けられないけれど、
彼らが時代を味方にして、幸せに自己実現していくと信じている。

離れていても、心はひとつ。
同じ空の下で、つながっている。

みんな、いつも本当にありがとう。
愛してるよ。

さあ、今日も一日、がんばろう。
では、バイバイ。


松永 修 – MUSICおさむ

松永 修|MUSICおさむ|国家公務員|キャリコン|作家・メディアクリエイター/音楽クリエイター(シンガーソングライター)|DTM作編曲

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