日々のことば(ブログ)

✍️誰にも見られない自由、誰かに見られる苦


おはよう。今日もいい天気。

今日は夏らしい。むし暑いけど、太陽がさんさんと光っていて、朝とは思えない太陽の高度だ。さあ、今日も朝から大声で一発歌ったよ。爽快な気分で、今日も通勤経路、このブログを作成しながら歩いていく。

今日のテーマは──「注目されること」と「本質的な価値」について。ここで言う“注目される”とは、たとえば世間に名前を知られる、有名になる、影響力を持つ、名声を得るといったこと。SNSでフォロワーが増えるとか、メディアで取り上げられるとか、社会的に目立つポジションに立つことも含まれる。

◾️注目される理由はさまざま──でも“本物”は残るか?

この世には、2種類の「世間に知られる人たち」がいると思う。一つは、信念や志に根ざした活動の結果、自然と注目を集めるようになった人たち。もう一つは、中身や大義がないまま、テクニックだけで“話題”になった人たち。

後者も一見「成功者」のように見える。でも、それは実体のない名声であり、心の空虚さと表裏一体だ。一方、前者はたとえ広く知られていなくても、自分の中には確かな軸と充実感がある。この差は、時間が経つほどに明確になっていく。

◾️知られていないからこそ、守れるものもある

世の中には、本当に素晴らしい活動をしているのに、たまたま時代のニーズに合わなかったり、誰にも発見される機会がなかったりする人がたくさんいる。でも、その人たちは不幸だろうか?

僕はむしろ、“いいとこ取り”の可能性すらあると思っている。

発言や行動の自由。誤解や炎上といったリスクの低さ。他人に縛られず、自分の本心に忠実でいられること。社会的に目立たないからこそ守れるものがある。誰にも管理されず、心のままに歩んでいける。それはとても大きな財産だと思う。

◾️名ばかりの“認知”に振り回される危うさ

一方で、大義も中身もないまま、表面的な発信で注目を集めている人もいる。最初はちやほやされるかもしれない。でもその多くは──

他人の評価に依存してしまう。誰かの目を気にして発言できなくなる。自分が何をしたいかすら分からなくなる。気づけば“デジタルタトゥー”という消せない足跡だけが残る。

これは、まさに“不幸の二重取り”だ。注目はされた。でも、何も残らない。むしろ苦しみだけが残ることすらある。

◾️「羨望」や「妬み」が生まれるのはなぜか?

一方、そんな有名な人に対して、一般の人々の中には妬みや攻撃の感情を向ける人も出てくる。特にSNSなどでは、根拠のない非難や揚げ足取り、炎上のような現象が頻発する。

こうした“大衆側の心理”についても、ここで少し触れておきたい。

では、人はなぜ他者に対して妬みを抱いてしまうのか。

心理学者レオン・フェスティンガーの「社会的比較理論」によれば、人間は無意識に他人と自分を比べて、自分の価値を測ろうとする性質がある。たとえば、自分より注目されている人を見たとき、「自分はダメだ」と落ち込んだり、「あの人は大したことない」と否定したくなったりする。

そのときに働くのが、アンナ・フロイトが整理した「防衛機制」だ。たとえば、「投影」や「合理化」といったメカニズムは、自分の中にある劣等感や葛藤を外に向けて処理しようとする心理的な仕組みであり、妬みや攻撃性の根本にある防衛反応でもある。

つまり、心を守るための自然な反応として、妬みや苛立ちは誰にでも起こりうる。

妬みを感じること自体は、悪いことではない。でも、それを他人にぶつけてしまうと、結局は自分を傷つけることにもつながる。

大切なのは、自分の中でその気持ちを正直に見つめること。そこから、自分自身の軸をどう取り戻すかが問われているんだと思う。

◾️「注目されること」と「価値があること」は別もの

今のSNS時代では、「認知されること」がとにかく強調されやすい。地位、名声、話題、影響力、資産、フォロワー数、バズった回数、インプレッション…。でも、「多くに知られている=価値がある」とは限らない。

社会学者ピエール・ブルデューは、社会における資本には「象徴資本(=名声)」と「文化資本(=意味や知性)」があると言った。今の時代は、象徴資本に偏りすぎている。

でも、表層だけの認知は長く続かない。それよりも、意味のある言葉、誠実な活動、人と人の信頼。こうした“文化資本”こそ、人生に本当の重みを与えてくれるものじゃないだろうか。

◾️名声は永遠ではない。栄光のあとに残るもの

世の中で名声を手に入れた著名人たちの多くは、調子乗ってしまったある部分を誰かしらに足元を掬われ、人生の終盤になると、まるで隠れるように息を潜めて生きるようになる。かつて浴びていたスポットライトのまぶしさが、今は逆に痛い。その心理の背景には、「認知されること」に依存してきた自分との葛藤がある。

目の前にぶら下がる、過去の賞賛や影響力の射幸性の高い快楽──それは、ドーパミンによる一種の中毒であり、離れようとしても、簡単には抜け出せない。しかも、SNSやメディアによって刻まれた“デジタルタトゥー”は一生残る。本人が変わっても、過去のイメージや発言は消せないまま残り続ける。

それが、名声の“後遺症”とでも言うべき苦しみなのかもしれない。

◾️無名の人生を「失敗」と思い込んでしまう誤解

一方で、名声を得なかった人の中にも、こう思い込んでしまう人がいる。

「自分は一度も注目されない」「夢は叶わなかった」「自分の人生は惨め」

でも、それもまた大きな誤解だと思う。

世間から見て“知られていない”というだけで、本当はたくさんの価値あることをしてきた人もいる。誰にも評価されなかったとしても、自分の信念を守って生きた人は、十分すぎるほど立派な人生だ。

◾️大切なのは、「どう見られるか」ではなく「どう生きたか」

人生の価値は、「何を得たか」や「どれだけ知られたか」では決まらない。どれだけ自分自身の軸を持って、心に正直に生きられたか。それが、人生の最後に静かに微笑む理由になる。注目されることには、達成感や影響力を通じた喜びがある。

注目されないことにも、自由さや静けさを味わえる豊かさがある。どちらにも、それぞれの光がある時代だからこそ、自分にとって心地よい生き方を、丁寧に選び取っていくことが大切なんだと思う。

◾️「成功」は、自分の中で定義していい

結局のところ、「有名=幸せ」「稼いでいる=正解」といった他人がつくった物差しに人生を預けてしまうと、ずっと比較の渦に巻き込まれてしまう。

大切なのは、自分の中にある“ものさし”を見つけること。

自分は何を大切にしたいのか。何をしていると心が満たされるのか。誰に見られていなくても、それを続けたいと思えるか。

たとえ無名でも、たとえ収入に直結しなくても、“本当の自分”として生きていけるなら、それはもう成功していると言っていい。

僕の一番大切なのは、家族かな。そこが大切にできていればもう成功だ。

◾️「知られない自由」と「自分で選ぶ人生」

誰にも知られずに咲く花がある。誰の称賛も得ずに、黙々と咲いて、静かに散っていく。でも、その一瞬一瞬が美しいことは、誰にも否定できない。

人の目に映ることよりも、“自分の目で、自分の人生を見つめられているか”。その方がよっぽど大切なんだと思う。

さあ、そんなことを今日考えながら、今日も一日が始まる。

今日も僕の大切な家族、みんなそれぞれの顔を思い浮かべながら。名前を呼び、顔を浮かべ、今日も頑張るよ。

愛してる。今日もありがとう。同じ空の下で繋がっている。

バイバイ。心は一つ。


松永 修 – MUSICおさむ

松永 修|MUSICおさむ|国家公務員|キャリコン|作家・メディアクリエイター/音楽クリエイター(シンガーソングライター)|DTM作編曲

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