昨日2025年3月25日、火曜日のお昼未明。 僕の人生で決して忘れられない、かけがえのない日となった。僕にとって、とてつもなく、大きなお別れの転機が急に訪れた。 18年と5ヶ月。人生の半分以上を共にしてきた、大切な家族であり、愛娘であり、僕の一部であった鳥、オカメインコのミュウちゃんが、静かに旅立った。
今、彼女の亡骸を抱きしめながら、全ての感情を永遠に残したい一心で、この文章を執筆している。最後のお別れだ。この愛おしい、香りも、柔らかな羽の感触もお別れか。もうすでに、体温も、鳴き声も、心臓の鼓動も絶えている。悲しい。
朝、仕事に向かう前のいつもの時間。春の陽気が心地よく、ミュウちゃんは少し元気そうに見えた。止まり木に軽やかに留まり、羽も膨らませて、どこか「春を感じてるよ」と言いたげだった。僕はその様子に安心して、またいつもの一日が始まると信じていた。春の暖かい光のなかで、ミュウちゃんは逝った。 数日前、鳥小屋をきれいに掃除しててよかった。 だいぶ暖かくなったから、分厚いタオルを外して、薄めに変えたばかりだった。ミュウちゃん、今年も寒い冬を超えたね、「春が来たね」と思ったばかりだった。
けれど、その数時間後、仕事合間のお昼のジョギング中にスマホが鳴った。 電話の向こうから聞こえたのは、信じたくない言葉だった。
「ミュウちゃんが…」
一瞬で景色が色を失い、足元が崩れたような感覚に包まれた。 走る足を止めて、思わず「えっ!?」と叫んだ。 何かが心の奥で確信に変わり、すぐに仕事を早退し帰宅した。
家に戻り、ゲージを覗いた。 そこには、もうミュウちゃんはいない。傍の机の上の箱に、動かないミュウちゃんの亡骸がそっと置かれていた。 冷たく硬直した身体、動かない羽、閉じられた瞳、あのやさしいオレンジ色のほっぺも、もう動かない。つい癖で、僕はミュウちゃんと会話しようと口笛を吹く。涙が出る。習慣だからこそ、反応がないのが余計に辛い。
もう5年近く盲目の状態だったこと、首の状態やバランス感覚の不自由から、ここ数ヶ月は身体的な障害を抱えていた。日中少し、春の日差しで暑くなり、水を飲もうとして顔から水に落ち、身動きが取れなくなったのだろう。 通常こういう緊急時には、オカメパニックと呼ばれる特有の激しい動きで脱出できていた。今回も、激しく暴れた痕跡は確かにあった。水が飛び散って亡骸もびしょ濡れになっていた。それでも、自力で顔を自ら出すことができなかったんだ。
一昨日の夜、僕との生前、最後の晩、口移しで秋刀魚をあげた。 白ご飯じゃなかったけど、それでも大好きな食べ物を与えた確かな記憶がある。最後の晩餐は秋刀魚だった。好きなものでよかった。 けれど、できれば大好物の白ご飯をあげたかった。俺がその日は白飯を抜いたばかりに、最後食べさせてやれなかった。まさか、あれが最後の夜なんて思わなかったから。白ごはんは、ミュウちゃんがいちばん好きだったものだった。心残り。「お墓には、毎回白ご飯を入れてあげよう」 そう心に誓った。
朝起きて、水を替えた今朝のことを思い出した。 水の中にうんちが浮かんでいた。あれは、昨晩も暑くて、水飲み場のうえで寝ていた証拠だ。 春になって少し気温が上がり、日中も、きっと水を飲みたくて、そこまで行って、足を滑らせたのかもしれない。 昨年の6月ごろにもすでに、三半規管が弱ったような、首を左右に何度も往復するような異常な状態はあったものの、首の角度はまだ正常だった。 でも、その後、首は徐々に上を向いたまま戻らなくなり、行動範囲も狭まり、ついには水を飲むだけでむせる状態で、日常も難しい身体になっていた。
でも、僕の口移しで、ご飯を毎日食べ、僕たちのスキンシップだけを、二人とも生きがいに、今日まで、ずっと愛し合って、二人三脚で毎日生きてきた。
とにかくミュウちゃんは毎日懸命に生きていた。でも、きっと体も心も限界だったのかもしれない。目が見えず、首が上がり、バランスも崩れ、生き続けることそのものが、つらかったに違いない。「もう少し、生きていられたかもしれない」でも、「このまま生きていても、可哀想な姿だったのかもしれない」そう思うと、自然と口から出た言葉は、「本当にお疲れさま。お疲れさま。お疲れさま。ありがとう。ともに生きてくれてありがとう。愛してるよ、ミュウちゃん。」でも、たしかに、僕の肩にのって、ご飯を食べる、あの至福の時だけは、どんな境遇になっても、最大の楽しみであり彼女の生きる希望だったことはまちがいない。
ミュウちゃんは、僕の咳払いや足音を聴き分けて、「あ、パパ帰ってきた」とピーピー鳴いてくれた。 鳥籠のゲージを開ける音がすれば、「水がもらえる」と察知して、目が見えなくても、差し出した水を飲んだ。 食事の時間は、僕の肩に乗せられると「口移しでごはんがもらえる」ともう18年間ずっと毎日楽しみにしていた。
一旦肩に乗ると、もはや音ではなく、目も見えないミュウは、僕の身体の向きや筋肉の動きだけでも、僕の行動を読み取り、口元のごはんを、くちばしでつつきにきた。お互い、それが幸せだった。楽しみにしていた。
この、最も驚異的な、無音の中での反応。 僕が後ろを振り向くだけで、ミュウちゃんは肩の上で口元へ移動し、ご飯をもらおうと、くちばしを伸ばす。まさに、互いの五感すべてで、通じ合う、阿吽の呼吸、一心伝心だった。 声、匂い、動き、気配。 全てが愛情と信頼で交わされていた。
晩ごはんを終えたあと、いつもミュウちゃんは僕の肩に乗ったまま、食器を洗う僕をじっと見つめていた。 食べ終わった後、肩に乗せたまま、食器を洗っていた日々。そして、その合間にご飯粒を分けてあげていた、毎日の習慣。そのすべてが、もう戻らない。その時間がとても好きだった。
今夜がお別れの最後だ。 土に返す。昨夜だけは、いつものように、一緒に食事をするふりでもしていたかった。昨日の、晩ごはんの時間には、もう死んでるけど、ミュウちゃんをいつもどおり肩に乗せて、いつも通り食事のふりをした。 今日の献立は、ハンバーグのソースと白ご飯。 彼女の大好物だ。 ごはん粒をくちばしに近づけても、もう反応はなかった。 でも、きっと喜んでいた。
そして、昨夜は、一緒に布団に眠ることにした。 胸の上にそっと乗せて、添い寝した。 冷たくてもいい、動かなくてもいい。 心の中では、あたたかく、生きている。遺体を傷つけないよう、寝返りをうたないよう、緊張して寝て眠りは浅かった。彼女の香りを何度も吸い込んだ。 ミュウちゃんの匂い。小鳥独特の、でも優しい香り。 できることなら瓶に閉じ込めてずっと持っていたい。その香りと一緒に、18年5ヶ月の思い出が押し寄せてきた。 その夜は、僕とミュウちゃんにとって、一番優しく、静かで、あたたかい夜となった。
今朝起きて、みゅうちゃんを見た。やっぱり動いていなかった。静かで、冷たくて、もうそこに“命”はなかった。寂しかった。昨夜はたくさん夢を見て、眠りは浅かったけれど、一晩一緒に眠ったことには意味があった。
命が尽きた身体には、もう何の機能も残っていない。心臓が止まり、血が巡らなくなり、脳も沈黙した。ただの“泣き殻”だ。感情も、思考も、記憶も、意識も──すべては動力と循環によって成り立っていた機能だった。それが止まれば、もうただの物体になる。でも、そんな理屈をどれだけ理解していても、目の前の姿はやっぱり愛おしい。もう意識はないとわかっていても、その姿に触れると、そこにあった温もりを、記憶の中の声やしぐさを、どうしても重ねてしまう。
子どもの頃、じいちゃんが亡くなったときも、ペットが死んだときも、ただ悲しいという気持ちだけだった。でも大人になって、経験を重ね、考え方や知識も変わった今、このみゅうちゃんの死を通して、初めて命というものを深く、本気で考えた。
命って、意外とシンプルだった。儚くて、脆くて、でも確かに存在していた。けれど、終われば“無”になる。魂が空に羽ばたいているとか、遠くの星に行ったとか──本当はもう、そんな風には思っていない。心がそばにいる、なんてことも、現実にはない。でも、それでもそう信じることで救われるなら、信じたっていいじゃないかとも思う。理屈ではなく、そう“感じる”ことが、僕ら人間にとっての“真実”なんだ。
胸の中に、愛情がずっと残っていれば、心が隣にいるという感覚も、まんざら嘘じゃない。あの星にみゅうちゃんがいる気がして、空を見上げて話しかけたくなる。科学的には“無”でも、そう感じ、そう信じて生きる僕の心の中では、それは確かに“在る”んだ。
結局、命や魂っていうのは、生きている人間の脳の中にしか存在しない。誰かが無になったとき、残された人間がどう受け止め、どう思い、どう生きていくか。それがすべてなんだ。いつか、僕も必ず、大切な人たちと別れる日が来る。人生に“絶対”はほとんどないけど、命に終わりがあることだけは、確実な“絶対”だ。早いか遅いか、それだけの違い。
今回のみゅうちゃんの死を通して、僕は少しだけ、その“絶対”に対する覚悟と準備ができた気がする。死んだ者にはもう何も届かない。だからこそ、生きている今を、目の前の命を、大切に抱きしめる。それしかない。
死ぬときには、何も持っていけない。何も残せない。だからこそ、今この瞬間を、たくさん感じて、たくさん愛して、たくさん楽しみたい。命あるうちにしかできないことを、全力で味わっていたい。死んだ後のことなんて、死んだ本人にとっては“無”でしかない。でも、生き残る僕たちにとっては、その命が遺してくれた記憶や想いが、生きていく意味や力になる。だから、僕は今日も生きる。命あるものとして、ちゃんと生きる。
そして、静かに思う。みゅうちゃんの姿は、もう“外側”だけだった。けれど、その外側にかつて宿っていた命を、僕は一生忘れない。あの時間が、確かにそこにあったことを、胸の中でずっと覚えている。物理的な現実が“無”だとしても、僕の中にある愛と記憶、それが僕だけの物語的真実。それがある限り、命はたしかに、今もここにある。
どんな時も、ミュウちゃんは僕のそばにいた。 スキンシップが少なかった日もある。 旅行で家を空けた日もある。 それでも、ミュウちゃんは僕を信じ、待っていてくれた。
そして、毎日口移しでご飯を与えていた日々。 それが当たり前のように続いていた。 まるで「空気」のような愛だった。 でもその「空気」は、どれほど尊いものだったか――
わかっていたよ。別れの日が近い気がしていたから、常日頃、噛み締めていた。 が、実際いなくなるのが急で、今になって痛いほど感じる。
毎朝、「おはよう」の声に反応してくれたこと。 日中、僕が部屋に入るだけでピィと鳴いてくれたこと。 夜、僕の口元にくちばしを近づけて、ごはんをねだったこと。 ギターの音をじっと聴いていた姿。全部、今も目に浮かぶ。
18年5ヶ月という時間は、ただの長さじゃない。 その中に詰まっているのは、数え切れない日常の断片。 僕の全てを一番見てきた相棒だ。
社会人になったばかりのころ。 初めての就職、不安な日々。 どんな瞬間にも、彼女はそばにいてくれた。ギターを弾くときも、曲を作るときも、静かに聴いてくれていた。 ミュウちゃんだけが、僕のすべてを知っていた。 相棒。 同志。 家族。 心の鏡。そのひとつひとつが、ミュウちゃんとの確かな絆だった。
今夜、彼女を土に還そうと思う。 今朝早起きして、自宅の庭の片隅に穴を掘って準備した。羽や毛の一部を記念としてティッシュに包んで大切に保管した。もう少し一緒にいたい気持ちはあるけれど、 それは僕のエゴで、ミュウちゃんのためにはならない。「ありがとう」「お疲れ様」「愛してる」 その気持ちとともに、自然へ返す。 風に、土に、空に還っても、ミュウちゃんは僕のそばにいる。心の中に、ずっといる。 きっと、また、風になって、僕の頬をなでてくれる。そして、天国では、ずっと鳥籠の中で叶わなかった、 羽で大空を羽ばたいてほしい。いつでも、僕の肩で、大好きなあのご飯を食べよう。
「どうせみんないつかは死ぬ。俺だって。みんな、早いか遅いかだ。
大事なのは、その一緒に生きた時代に、確かに愛し合って、18年もの青春時代を共に過ごしたこと。」なぁ、みゅうちゃん、そうだよね。
彼女が水に溺れて死ぬ時、苦しかったかもしれないけど… きっと、僕のことを思い出してくれたと思う。 彼女の人生のすべてが、僕との時間だったから。肩の上で過ごす時間、口移しでのご飯、檻越しの声、気配、匂い。 それが何よりの喜びだった。 だからきっと、最後の瞬間も、僕のことを思ってくれていた。そして僕も、その知らせを受けてからずっと、ミュウちゃんのことを考えている。時間差があっても、心の中では、同じ時を過ごしていた。
もう物理的にミュウちゃんが僕の肩に乗ることはできない。 でも、亡骸は家の庭に埋める。 埋めるのは“終わり”ではなく、“次のはじまり”。
自分で決めた「本日、19時の埋葬」 それは、ミュウちゃんにとっても、きっと安らぎの旅立ちになる。
「この人に見送ってもらえて、本当に幸せだった」 ミュウちゃんは、そう思ってくれていると信じたい。魂は、星に行くかもしれない。 でも、心はいつも隣にいる。
僕の現在制作中のオリジナル曲「ロケットコード」は、命をつなぐ歌。 かつてリリースした「星になった君と」は、別れを受け入れる歌。 離れても心は一つ、いつも心は隣だと信じ合える誓いの歌だった。ついに、ミュウちゃんは本当に星になった。 だから、今こそ「ロケットコード」を完成させなければならない。 この「ロケットコード」が完成することで、 ミュウちゃんは音楽の中に永遠に生きる。再会の合言葉をこめて、星になった君にまた会いに行くために、 ロケットは飛ぶ。
ありがとう、ミュウちゃん。 大好きだよ。 君は先に星に行ってしまったけど、 心はいつも、僕の隣にいる。またいつか、星で会おう。 僕もそのうち、必ず行くから。今度はもっと広い空を、いっしょに飛ぼう。
ミュウちゃん、本当に、長年、鳥籠の中で、ほんとうに、お疲れ様。 どうか、天国で他の鳥たちと同じように、空をたくさん飛んでね。でも、僕と一緒に肩でごはんを食べられないのは、やっぱり寂しいよ。
今この瞬間も、きっとミュウちゃんは、この言葉を聞いている。
あの時間が、君にとっても、僕にとっても、 何よりも大切な“日常”で、“幸せ”だったんだよね。でもね、ミュウちゃん。 君はもう、身体は天に還っても、心はずっと、僕の肩にいる。 だからこれからも、毎日話しかけるよ。
ご飯を食べるとき、ふとしたとき、 君がそこにいるように感じながら、生きていく。
ありがとう、ミュウちゃん。 愛してるよ。
この文章を、無我夢中で泣きながら書いて、君を抱っこしながら、音読したよ。永遠にアイラブユー。こころからありがとう。みゅうちゃん。
平成18年10月末(2006年10月31日)から、本日2025年3月25日
18年4ヶ月25日の間、ありがとう。これからも心はとなりにいるよ。本当はもう君は無だとしても、これまでの事実は永遠に在る。僕が生きているうちは僕の物語的真実を君と紡ぎ続ける。これからも大好きだ。愛してる。おやすみ。ゆっくりね。