僕と音楽の出会いの裏側 Vol.2(大学時代~現在)~半生と情熱の理由の全て~

●初めての作詞・作曲は17歳

高校卒業後の大学入学直前の春休みに、初めて作詞・作曲をした。高校生活が楽しかった反動で、卒業後の空虚感が凄まじく、日記を書いても、写真を眺めても心は満足しなかった。そのため、心の切り替えを助けるために、この感情を消化し、前向きに昇華させるために、雰囲気を表現できる音楽で記録したくなった。処女作のタイトルは「卒業」。今では恥ずかしくて歌えない代物だが、それでも兄貴がその曲を気に入ってくれたおかげで、僕は自分で作る音楽に希望を持ち始めた。これまで好きだったジャンルを僕なりに統合して、ポップでフォーク、そして時にはパンクロックな優しく熱い曲を作りたいと思い始めた。日記や手紙に代わる、新たな記録手段、伝達手段として、もっともっと上手に楽曲で表現できるようになりたいと心から思った。

●青春パンク最盛期

2000年の春、大学に入学した。この頃は、MONGOL800、GOING STEADY、B-DASH、175RをはじめとするTHE BLUE HEARTS、Hi-STANDARD、19、Mr.Children、サザンオールスターズ、GReeeeN、JUDY AND MARY、Tommy february6、BoA、倉木麻衣などをよく聴いていた。特に、メロコアや青春パンクが最盛期で、僕も友達も、熱く、激しく、優しく、切なく、シンプルでわかりやすい、まっすぐなこのジャンルに魅了された。

●楽曲制作環境の探求

鼻歌での作曲に慣れてきたころ、次はそれを録音して音源データにする方法を模索し始めた。その頃、MIDI(機械に自動演奏させるための音符データみたいなもの)やYAMAHAのシーケンサーQY100(MIDIデータを作り自動演奏させる)の存在を知り、習得と制作に没頭した。流行っている楽曲を耳コピでPHS(昔のモバイルフォン)の着メロを自作しまくり、楽器が上手に弾けなくてもMIDIデータの作成で音源データが作れることの衝撃を満喫した。その後、さらにYAMAHAのWindows98用「作曲名人」を使い、初めてのDTMを導入。視覚的なPAN設定やピアノロール操作に更なる衝撃を覚えた。

当時はオーディオインターフェースは一般には普及しておらず、マイクを直接PCに接続し、音質も今とは比べ物にならないほど悪いものだった。また、PCのスペックなどの関係で、音の遅延も凄まじく、音のタイミングを合わせるのも至難の業だった。普及し始めたインターネット環境の中で、文献も蓄積されておらず、解決方法も簡単には見つからない状況で、個人の試行錯誤が必要だった。最終的に、遅延問題を解決する方法は、MTR(YAMAHA MTR MD RECORDER MD4S)を入手し、YAMAHAのWindows98用「作曲名人」で作ったオケを一旦MTRに録音し、MTR上でボーカル録音と最終MIXを行うという環境にたどり着いた。教えてくれる人も、調べる文献もない中、自身で試行錯誤して、たどり着いた達成感は半端ではなかった。PCとMTRを使って、遅延なく制作とレコーディングをする環境を整えた僕は、これまで作ったオリジナル曲をひとつずつ音源化していった。

今の時代では、プラグインやエフェクトで簡単に実現できることも、当時はかなりの工夫が必要だった。例えば、ボーカルにエコーをつけるのも当時は一苦労で、お風呂の中でレコーディングしたり、ゴミ箱を頭から被ってその中の響きを活用したり、同じ音を0コンマ数秒ずらして重ね撮りしてダブリングするなど、アナログで様々な音の変化を試行錯誤していた。そうして苦労して完成させた作品は、レコード会社などの様々なオーディションに応募もした。

●社会人 24歳~34歳(新社会人生活・家庭形成期)

大学卒業後、新社会人生活や家庭形成期で忙しく、自分の音楽を作る生活から少し離れていた時期があった。過去に作った自分の作品を時々聞き、沸々と湧く制作への情熱を隠しながらの生活が続いた。この時期は、友人の結婚式が多く、結婚式の余興で流行りの結婚式ソングをカバーして弾き語りする程度だった。結婚式フィーバーが落ち着いた後、次第にギターにホコリが被り、音楽から離れていった。その時の生きがいは、「仕事の充実と家族の笑顔」だった。音楽がなくても、僕の心は満たされていた。

●社会人 34歳~35歳(人生の挫折)

34歳の頃、大切な家族との離別を経験し、人生最大級の挫折を味わった。しばらくは生きる気力を失い、落ち込んでいた。お酒で気を紛らわす日々が続き、生活も荒れていた。しかし、挫折を乗り越え、立ち直るきっかけとなったのが、音楽制作の復活だった。塞ぎ込んでいた僕も、楽器店に行ったり、弾き語り動画をYouTubeに投稿したりして、徐々に元気が戻り、生活への活力も戻り始めた。あの挫折時に経験した苦しみや悲しみ、未来への願いを歌に込めることで、僕は前を向け、救われた。また、弾き語りの練習やDTMの再勉強に没頭することで心も救われた。大学時代から比べ、時代も技術も革新的に進歩しており、音源作成環境も劇的に進歩していた。当時の苦労が嘘のように便利になっており、驚いた。この頃の制作環境はMTR(BOSS BR-532)でボーカルやギターを車で録音(家だと騒音で迷惑だから)し、自宅のパソコンのDAWソフト(CakeWalk SONAR)でミックス、マスタリングをするスタイルだった。

また、楽器店で新しいアコースティックギターを購入した日、店員と意気投合し、プライベートでも音楽仲間になった。彼は僕を描いたオリジナルソングをプレゼントしてくれ、弾き語りの技術や作曲のアドバイスをしてくれた。彼との出会いは、僕の音楽活動の支えとなった。そして、音楽のおかげで新たな出会いも一気に増え、バンドを結成。デモ音源を作成(この頃のDAWソフトはSteinberg Cubase)し、メンバーと練習に励む日々が、10代、20代の青春の再来のようだった。この時期に、自作曲が一気に増え、バンド以外でもソロで弾き語りイベントにも出演するなど、活動が再燃した。もちろん、挫折をある程度乗り越えて幸せを感じても、挫折の悲しみや傷が消えるわけでもなく、それは死ぬまで背負う十字架の傷であり、願いや想いだった。今の僕の音楽の情熱もここから来ている。消えない悲しみと、揺るがない想い、強い覚悟と願いが全てのエネルギーとなっている。この頃から、流行りの音楽や昔好きだった曲すら他人が作った音楽を聴くことが減った。人の音楽に触れると、自分が表現したい感情や音楽を見失いそうで、苦悩が入り交じる複雑な感情に襲われ、聴くことができない時期もあったからだ。僕の音楽は30代前半までに聞いた曲と、経験した深い挫折と乗り越える過程での数々の出来事、その淡い記憶と音のデータベースが、今現在の僕の人となりのフィルターを通して、捻り出される。それが今の作曲から出てくる作品の根本だ。音楽は、僕の過去、現在、そして未来の一部だ。

●社会人 36歳~39歳(新たな幸せの形がスタート)

再度新たな家庭形成と、離別した後も揺るがず築いてきた大切な家族との絆と愛情維持の両立を熟す複雑かつ高度な生活スタイルが始まり、日々、調整と、解決、心の整理の連続だった。少しずつ、その困難な状況に、僕も家族も慣れたり、乗り越えたり、また試練が訪れたりの連続だった。そんな状況だからこそ、僕の音楽への情熱は尽きようがなかった。もう、僕は、一生背負った深い想いがある。時が経ち、形も移り変わり、状況にも慣れ、今は、とても僕も家族も、今の形を幸せと思えるようになったけど、離別による悲しみや、現在、将来訪れる困難の連続は今後も変わらない。家族一人ひとり全員を笑顔にしたい。でも、ある程度状況的に割り切ったり、愛情や資力や割く時間の配分を整理したりしないといけない苦しいことも、今後もずっと連続する。だから、僕には、ずっと音楽が必要だ。僕の心を記録し、表現する手段。家族との絆をつなぐ手段。心の想いを消化し、昇華させる僕のツール。本当に感謝している。別に音楽でなくてもいいはずだが、たまたま音楽がずっと大好きだから、この自身を救う手段として音楽を選んでいる。

そんな、新たな幸せの形の生活スタイルへの日々の挑戦で多忙を極め、バンド活動を休止した。それを機に、音楽理論を独学で学び直し、ギターやブルースハープなどの演奏技術に改めてじっくりと向き合い、これまで全く余裕がなかった音楽制作への細部に力を注いだ。日々、試行錯誤しながら音楽に真剣に向き合い、進歩が実感できず苦しい時期が続いたが、それでも少しずつ手応えを感じ始め、数十年続けた音楽なのに、やっと39歳になった頃、基本的なことが少しずつ身につき、以前よりも自信がついてきて、やっと音楽の入り口に立てた気持ちになった。

●40歳から42歳現在まで(初めてのSNSとMUSICおさむの誕生)

研鑽を続けることと、過去に作成した自作曲の全てを音源化(レコーディング&アレンジ)することを目標に活動をブーストし始めた。この頃から、WindowsからMacintoshに乗り換え、DAWソフトもSteinberg CubaseからLogic Proに変更した。高額なセミプロ使用のオーディオインターフェースや各種エフェクターも導入し、制作環境、ライブパフォーマンス環境、配信環境を整えていった。また、今までやったこともない、SNSのアカウントを作り始めて投稿したのが、40歳の4月21日だ。ここから、MUSICおさむとしてのソロ活動が始まる。

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