日々のことば(ブログ)

✍️防衛強化と国家予算──「軍拡」か「自立」か、日本が戦後80年ぶりに問われる“覚悟”

おはよう。今日は少し曇りだ。最近、国民全体が少しずつ意識し始めている問題がある。それは、「国をどう守るか」という根本の問いだ。ニュースを見れば、防衛費の「増額」「反撃能力」「有事対応」などという言葉が目に入る。けれど実際のところ、僕たちはどこまで備えていて、どこからが理想論なのか――その境界線はあいまいだ。

今日はその曖昧さを少しでも解きほぐしながら、防衛強化という言葉の内実を、一緒に見ていきたい。そして、偏りだらけの報道や、立場によって解釈の異なる情報をできるだけ公平に並べ、あなた自身が「何を信じ、どう願うか」を構築できる、そんな記事を目指して綴っていきたい。

◾️徴兵制度がない国で、誰が戦うのか

日本には徴兵制度がない。これは戦後の憲法と平和主義の象徴でもある。けれど、もしある日ニュースで「徴兵制が検討されている」と聞いたら、あなたはどう感じるだろう。おそらく多くの人が反射的に「そんな時代に戻るのか」と驚き、恐れ、反対すると思う。それは決して間違っていない。僕自身もそうだ。誰もが、できることなら戦争など二度と起こってほしくないと願っている。

ただ一方で、現実の世界は理想だけでは動かない。もし国の存続や人の命が脅かされるような状況が起きたとき、誰がどうやってこの国を守るのか。その現実的な問いが、静かに私たちの足元に置かれている。AIか、ロボットか、それとも外国の兵士か――冷静に考えれば、結局のところ、それは「僕たち自身」だ。これは“戦え”という話ではなく、「どうすれば戦わずにすむ社会を保てるか」を真剣に考える出発点にすぎない。

防衛とは、戦う意思ではなく、生き延びるための仕組みを整えることだ。誰が守るかという問いの裏には、「誰が傷つかずに生き続けられるか」という、より深い問いがある。つまりこれは、戦争を避けるための現実的思考だ。暴力を否定しながらも、無防備ではいられないという“矛盾の中に生きる覚悟”。その微妙な均衡を保てるかどうかが、これからの日本に求められていることだと思う。

◾️防衛強化の現実──“軍拡”ではなく“自立”の課題

ここ数年、防衛費の増加が大きな話題になっている。防衛関係費は2023年度でおよそ6兆8千億円、2024年度は7兆7千億円を超える見込みだという。政府はGDP比2%を目指すとしているが、それを「軍拡」と見るか「自立への準備」と見るかで、受け取り方は大きく分かれる。

たしかに、戦争を想定した力の誇示には賛成できない。けれど、どの国にも最低限の「備え」が必要だというのも事実だ。燃料、食料、通信、エネルギー、医療、情報――それらが一度止まれば、銃を持たなくても社会は麻痺する。つまり、防衛とは“戦うため”ではなく、“止まらないため”の仕組みを整えることだ。

日本の防衛強化は、戦争をしたいからではなく、むしろ“戦争を防ぐための抑止”を現実的に考え始めた結果だと思う。攻撃を受けたら守る、その単純な図式ではなく、「どうすれば攻撃をされない国でいられるか」。そこに焦点を置くことこそが、真の防衛力だ。

だから僕は、「軍拡」という言葉よりも「自立」という言葉を選びたい。自分たちのエネルギー、食料、技術、情報を、自分たちで守れる体制を少しずつ整えること。それは、誰かを敵視するための力ではなく、誰かを頼りすぎないための力だ。国家の自立も、人の生き方も、根っこは同じだと思う。

◾️アメリカに頼らないという幻想と現実

「アメリカに頼らない防衛を」と言う声を、最近よく耳にする。たしかに理想としては正しい。独立国である以上、自分たちの判断で国を守る力を持つことは、主権の根幹でもある。けれど、現実はそれほど単純ではない。

日本は戦後、敗戦国としての制約の中で再出発した。軍を持たない国として歩き出し、憲法9条の下で、アメリカの安全保障の傘に守られてきた。これは戦争の悲劇を繰り返さないための選択であり、同時に、自らの防衛的自立を封じられた状態でもあった。

つまり、日本は80年ものあいだ「守られる側」として制度的に組み込まれてきた。その結果、今になって急に「自立しよう」としても、どうすればいいのか分からない――それが今、多くの人が抱く戸惑いの本質だと思う。

戦後の仕組みは、ある意味で“弱体化の構造”として設計されていた。軍事研究や装備開発の制約、情報共有の非対称、そして戦略決定の多くがアメリカ主導で行われてきた。もちろん、それによって平和と経済発展を享受できたという側面もある。だが同時に、自国の防衛方針を自ら決める感覚は、徐々に薄れていった。

だから今、私たちは問われている。アメリカとの関係を断ち切ることではなく、どうすれば“支配でも従属でもない協働”に変えられるか。自立とは、相手を排除することではなく、互いに敬意を持ちながら自分の意志で立つことだ。

そしてもう一つ重要なのは、「自立してもいいのか」という、目に見えない心理的ブレーキだ。敗戦国としての記憶が、どこかで“遠慮”を生んでいる。だからこそ僕たちは、感情ではなく理性で、未来を選び取る必要がある。自立とは、戦うことではなく、自分の国のあり方を自分たちで決めること。その意味を、今ようやく真剣に考える時期に来ていると思う。

◾️抑止力の心理学──“戦わないために備える”というパラドックス

人間の心理は複雑だ。安心を得るために防衛を強化するほど、逆に不安も膨らむ。武力を持つことで「これで大丈夫」と思いたくなる一方で、「相手に刺激を与えてしまうのではないか」という恐れが生まれる。これは個人の関係でも国家の関係でも同じ構造だ。

抑止力とは、相手に「攻撃しても得るものがない」と思わせる心理戦のようなものだ。実際に使うための武力ではなく、「使わないための準備」に意味がある。けれど、その準備が強すぎると、相手は「備えているなら、こちらも備えよう」と反応し、互いの警戒心が連鎖していく。いわば“安全のための競争”だ。

この矛盾は、心理学でいう「安全保障のジレンマ」に近い。安心したいという動機が、かえって相手の不安を刺激し、結果として不安定を生む。これは人間関係でもよくある。相手を疑うほど、相手もこちらを警戒する。やがて信頼が損なわれ、互いに守りを固める。

では、国家レベルでこの悪循環を断ち切るにはどうすればいいのか。答えは単純ではない。けれど、まずは「相手が何を恐れているか」を想像することからしか始まらない。心理的な抑止とは、恐れ合う構図を解体し、互いの不安を減らすことでもある。

軍事力は確かに必要な要素だ。だが、それ以上に必要なのは「対話の仕組み」と「信頼の維持」だと思う。どれほど高性能の兵器を持っても、信頼が崩れた瞬間に抑止は成り立たなくなる。人の心が壊れれば、平和の土台も壊れる。

だからこそ僕は、抑止力を「心理的な均衡を保つための知恵」として捉えたい。力で制するのではなく、恐れを理解し合うこと。それこそが、戦わないための最大の備えだと思う。

◾️歴史から学ぶ──敗戦国から“守る国家”への変容

戦後の日本は、焦土の中から立ち上がった。武力を放棄し、経済と教育、技術と文化の力で復興を遂げた。その歩みは、世界のどの国とも違う“平和国家”のモデルをつくり上げたと言える。だが、その平和は「自立した防衛力」を犠牲にして築かれた側面もある。

戦争の痛みを二度と繰り返さないために、憲法9条が生まれ、自衛隊は「軍隊ではない組織」として存在してきた。表向きは“戦わない国”でありながら、実際には周辺国の緊張が増すたびに、防衛の定義を少しずつ広げてきた。結果として、平和と安全のあいだに“沈黙の矛盾”が生まれた。

それでも、日本は戦後一度も戦火を経験していない。これは誇るべき事実だと思う。戦わないという選択を続けながら、経済成長と国際貢献によって信頼を積み重ねてきた。武力を持たずとも、外交と誠実さで影響力を持てることを示した国は、世界でも稀だ。

しかし、時代は変わった。ミサイルは数分で届く。サイバー攻撃は国境を越え、経済制裁や情報操作も武器になる。これまでの“平和の方程式”が通用しなくなりつつある。

「戦わないための備え」と「備えることが戦いを誘うかもしれない恐れ」──その矛盾を抱えたまま、日本は次の時代を迎えている。

だからこそ今、必要なのは“過去を否定すること”でも“理想を捨てること”でもない。過去がつくった制約を理解し、その上でどう自立していくかを考えることだと思う。守る力を持つことは、攻める意思とは違う。自立とは、誰かに依存せずに平和を選び取る力のことだ。日本が再び「戦う国」ではなく、「守れる国」として成熟していけるかどうか――その分岐点に、僕たちは立っている。

◾️防衛+自給体制──物理攻撃だけが脅威ではない

いまの時代、攻撃は銃や爆弾だけから来るわけではない。経済、資源、情報、そして食料。どれかひとつが止まるだけで、社会は静かに崩れていく。防衛とは、戦場を守ることではなく、日常を守ることでもある。

まず考えなければならないのは、食料の問題だ。日本の食料自給率はおよそ38%。先進国の中でも低い水準にある。輸入が止まれば、数週間で流通は麻痺し、スーパーの棚は空になる。生きるための“防衛力”が、すでに脆弱な状態にあるということだ。

農業の担い手不足、燃料高騰、天候変動――これらもまた“安全保障”の一部だ。食料を国内でまかなう力を少しずつ取り戻すこと。それは軍備よりも確実に国を強くする。

同じことがエネルギーにも言える。原油の9割以上を中東に頼り、天然ガスの多くを海外から輸入している。もしも海上輸送が止まれば、工場も病院も動かない。エネルギーの自給率はわずか12%前後。これはつまり、戦わずして社会が止まるということだ。

防衛という言葉を軍事の枠から外して考えれば、真の課題は「持続する仕組み」を持てるかどうかだ。電気、食料、水、通信、医療。これらを自分たちで維持できる社会こそ、本当の意味での“守る国”だと思う。

そしてもう一つ、見落とされがちなのが情報の防衛だ。ネット空間では、嘘や操作が現実を動かす。サイバー攻撃だけでなく、偽情報や心理操作も“武器”になっている。情報を見抜く力、事実を確かめる姿勢、それを持つ市民一人ひとりが国家の防波堤になる。

つまり、いまの防衛の本質は、武器ではなく仕組みだ。どんなに強い軍を持っていても、食料も情報も途絶えた国は立ち行かない。生きる力を自分たちの手で守れる社会。それがこれからの“自給防衛”の姿だと思う。

◾️課題と問い──どこまで防衛と自立を目指すか

防衛と自立の議論には、正解がない。国のあり方を決めるというのは、単に装備や予算の話ではなく、価値観そのものを問うことだからだ。私たちは何を守り、どこまでを「自分たちの責任」と考えるのか。その線引きが、今まさに問われている。

いま必要なのは、「お金を増やすか減らすか」ではなく、「どんな未来の形を守りたいのか」という発想の転換だと思う。防衛費の増額も、自給体制の強化も、最終的には“生き方”の選択につながる。自立とは、孤立ではない。誰かを頼りにしながらも、自分の意志で選べる状態のことだ。

そしてもうひとつ、見過ごせないのが世論の二極化だ。防衛強化を“戦争準備”と捉える人もいれば、“平和を守るための備え”と考える人もいる。どちらの考えも、根底にあるのは「平和を願う心」だ。違いがあるのは、平和をどう守るかの手段であって、目的ではない。だからこそ、互いを否定し合うよりも、「どんな未来なら子どもたちが安心して生きられるか」という共通の問いに立ち戻ることが大切だと思う。

結局、防衛も自立も、国の問題であると同時に、私たち一人ひとりの生き方の問題だ。どんな社会を望むか。どんな責任を引き受けるか。それを考えることが、すでに“守る”という行為の一部なんだと思う。

◾️結びに──意志と覚悟を、日常に

国の防衛や自立というテーマは、どこか遠い世界の話のように聞こえるかもしれない。けれど本当は、毎日の小さな選択の中にすでにその種がある。家族を守ること。正しいと思う行動を貫くこと。人を信じ、助け合うこと。そうした日々の積み重ねこそが、国家の“防衛力”の根っこにある気がする。

戦う覚悟ではなく、生きる覚悟。恐れではなく、意志。誰かに委ねるのではなく、自分の頭で考え、感じ、決めること。そういう人が一人でも増えたとき、国というものは本当の意味で強くなるのだと思う。

世界の緊張が高まり、時代の風が荒れても、僕たちは自分の場所でできることを積み重ねていくしかない。今日の選択、今日の言葉、今日の祈り。そのすべてが、次の時代をかたちづくる力になる。

同じ空の下、それぞれの場所で、一生懸命生きる人たちへ。恐れずに、まっすぐに、自分の信じる道を歩いていこう。

心は一つ。今日もありがとう。

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