【涙】今を見て、今を生きる。みゅうと歩き出した8日目【始まりの章】

昨日で、みゅうちゃんが旅立ってちょうど1週間。僕は毎日毎日みゅうちゃんと真剣に向き合い、自分自身の過去とも未来とも向き合ってきた。

そして、昨日は7日目にして一つの区切りをつけることができた。心に整理がついた。最終章とも呼べる深い気づきだった。

実際にこの8日間で得た気づきは、心理学で語られてきた多くの理論──たとえば、フロイトの「防衛機制」、ベックの「認知の歪み」、ロジャーズの「実現傾向」、アドラーの「全体論」や「目的論」「劣等感の克服」など──それらすべてに深く通じていた。

けれど、これまではただ“知識として”知っていたものだったが、みゅうとの別れを通じて、実際に“心で感じ”、人生を通して“自分の言葉で気づきとして辿り着いた”ことが、何よりの財産だったと思う。

後から理論と照らし合わせてみて、なるほど、自分はこういう体験を経て、こういう思考に至っていたのかと、改めて確信を得られた。そして、それこそが強い軸になるのだと今は思っている。

それは、まさに一つの“節目”となる日。ブリッジスの転機論で言うならば、みゅうちゃんの旅立ちという「終焉」のあと、深いニュートラルゾーンを経て、僕はようやく次のステージに立った。つまり、今日からは「始まり」の章。悲しみを力に変え、新しい日々が動き出す。少しずつ、日常の自分に戻っていこうと思う。

とはいえ、みゅうちゃんへの想いがいきなり消えるわけじゃない。だから、これからも自然なかたちで、僕のブログや音楽、日々の言葉の中に、みゅうちゃんの存在はずっと息づいていくと思う。

今朝は、雨上がりの清々しい空。

みゅうちゃんが亡くなってから、二度目の雨を越えた朝だ。世の中はまだ少し寒いけど、あの日──3月25日──だけは、春らしい温かさに包まれていた。それだけで、僕はとても救われる。

みゅうちゃんは、あの日、完璧な別れ方で旅立ってくれた。

今は遠くの星にいて、空から僕たちを見守ってくれている。家族もみんな、それぞれの環境で、ちゃんとつながっている。同じ空の下で、それぞれの居場所で、がんばっている。

今回の事で、改めて、「現実の目で見ること」の力を感じる。

ここまでの気づき──過去に起きた、かわいそうだった事実や後悔だけで、その人の人生全体を“かわいそう”と評価するのではなく、今を見て、全体としての幸せや実現傾向を理解し、尊重することが本当の愛──という考え。

これは、頭だけで考えていたのではなく、実際に大切な人と“対面して向き合った”からこそ、気づけたことだった。

──みゅうちゃんのお墓に向かって、目の前にいるつもりで話しかけたとき。

──子どもたちやパートナー、両親といった大切な人と、直接会って、話し、成長や笑顔に触れたとき。

どれも、“愛する人が目の前にいる”というリアルな時間だった。

嬉しそうにしている君たちを前にしたら、「かわいそう」なんて、絶対に思えなかった。むしろ、「どう見ても幸せでしょ」「すごいよ」と、自然と心から思えた。

僕は、別れた瞬間の悲しみや、過去の一部の記憶にしがみついて、勝手に「かわいそうだ」と決めつけていた。それこそが、愛する人への“現実から目を背けた”姿だったと、気づいた。

だから今、はっきりと言える。

大切なのは、「今」を見て判断すること。

愛する人の「今の幸せ」や「今の姿」を、しっかり目で見て、心で感じること。頭の中だけの空想ではなく、ちゃんと“現実を見て、理解する”ということ。

それが、みゅうちゃんが教えてくれた、そして、大切な人との対話とふれあいを通して得た、人生最大の気づきかもしれない。

でもね、これまでのすべての気づきは、“初めての気づき”ではない。

僕はこれまでの人生でも、大切な人たちの“今”をちゃんと見ていたし、感じていた。大切な人たちと会うたび、話すたびに、安心していた。過去をずっと引きずって「かわいそう」なんて思わなかったし、「今をちゃんと幸せに生きている」と心から理解していたし、敬意もあったし、信じてもいた。

みゅうちゃんに対しても同じ。老齢化によって既往症を抱えていたけれど、「かわいそう」と感じたのはほんの一瞬で、日々の暮らしの中で楽しみを見つける姿や、肩に乗ってくるあの可愛らしい日常を通して、僕はずっと「幸せそうだな」「すごいな」と感じていた。

つまり、「今になって気づいた」というのは、「過去はその愛し方ができていなかった」という意味ではない。「ずっと感じていたことを、改めて“言語化できた”」ということ。そして、軸が明確になり、より一人のときでも、どんな状況でも、時間が経っても、たとえかわいそうな状況が目の前に訪れても、全体性を見失わない、ブレない強さを得た──それがこの8日目だったのだと思う。

むしろ、「よくここまでやってきた」と、少し誇っている。あのときあのときなりに、ちゃんと愛していたし、見守っていた。それを理論として再確認できたことが、僕の大きな成長なんだと思う。

これまでだって、自分はちゃんとやっていた。それを「軸」として自覚できた今、もっと迷いなく、大切な人たちの“今”と“これから”を見つめていけると思う。

さぁ、昨日の夜、久しぶりに歌を歌った。

みゅうちゃんとの別れを経て、初めて声が出た。心から湧き出る想いのままに、ギターを抱えて、目を閉じて、ただ弾き語りをした。

みゅうちゃんを思いながら、心から、無意識に近いような感覚で歌えたことが、何より嬉しかった。

やっと、音楽が何かへの力みを越えて、自分の中で“自由”になった気がした。これが、技術や知識だけでは辿り着けない境地なのかもしれない。

ロケットコードという今制作中のオリジナル曲がある。

不思議なことに、吹き込んでいた歌詞やメロディが、まるでみゅうちゃんとの別れを前提に書かれたかのように感じる。いや、それもそのはず。作りながら、みゅうちゃんとの別れの日を想像しながら、心を込めて吹き込んだのは間違いない。生前に録ったはずなのに、まるで“みゅうちゃんのためのお別れの心の準備、生前のお墓”のような曲だった。

みゅうちゃんと一緒に作ってきたこの楽曲は、きっと僕らにとって一生忘れられない作品になる。そして、完成したときには、みんなにも聴いてほしいと思っている。

さあ、今日も行ってきます。

大切なみんなへ──過去に何があったとしても、今を力に変えて、生きている姿は本当にすごい。尊敬してる。

今、幸せを生きる君よ。
愛してるよ。今日も、ありがとう。

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