みゅうちゃんが旅立って、今日で7日目になった。今日は火曜。ちょうど先週の火曜の朝9時半から11時に、あの子は旅立った。そう思うと、胸が詰まる。
そして一歩一歩、この出来事を通して、僕の人生にとってとても大切な気づきにたどり着いている。
悲しみや後悔、辛かった出来事はたしかにある。けれど、それらは「スポット(短期)視点」で見るべきものだ。ある瞬間に感じた苦しみや失敗、その時の涙に寄り添い、共感し、ねぎらうことはとても大切だ。でも、それだけでその人の人生全体を「かわいそうだった」と評価するのは、大きな誤解であり、むしろ失礼ですらある。いや、理解してなさすぎて、残念なほどでもある。
本当に大切なのは、「全体(長期)視点」で見ること。その人が、どんな状況でも幸せになろうと努力してきたこと(=実現傾向)を理解し、一生全体を通して、そして今現在の幸せを称賛し、信じること。
これが本当の愛であり、理解であり、尊重だと、ようやく今の自分は確信できるようになった。それは、人に対しても、自分に対してもだ。
これは、みゅうちゃんとの別れ、そしてかつての別れ──家庭の中で子どもたちとの長年にわたって抱えてきた思い──そのすべてが統合されて、ようやく辿り着けた答えだ。
もし今でも、自分のことを「かわいそうな奴だ」と評価され続けたら、僕はこう言いたくなる。「俺の何を見てきた? どんなふうに生きてきたと思ってる?」と。
それがもし、母親や父親、妻や子どもたち、みゅうちゃん……一番の理解者と思いたい身近な人に言われたとしたら──たとえその人を愛していたとしても、もう心を閉ざしたくなる。むしろ、大好きな人だからこそ、理解されていない気持ちが悲しくなるだろう。
「僕はここまで、頑張ってきた。すごいでしょ。あの時の経験をバネにして、ずっと頑張ってきたんだ。今、幸せなんだ!」と、理解してほしくなる。
だからこそ、僕は目が覚めた。
愛する人には、「かわいそう」とか「ごめんね」ではなく、「幸せだね」「すごいね」と伝えられる人間でありたい。
たとえ過去に苦しみがあっても、そこはスポットで労い、共感するにしても、今のその人を長期的・全体視点で心から理解し、称え、尊重する。それこそが本物の愛なんだと、ようやくわかった。
みゅうの命の別れという究極さ、そして長年の子どもたちへの想い、ここまでの自分の成長と経験、周りの支え──そして昨日までの7日間、毎日、思考と感情を記録として綴ってきた。
ただのブログじゃない。命に向き合い、自分の人生に判断すら下すほどの悲しみの中で、導かれた“気づきの軌跡”だった。
そして昨日、ふと思い出した。
僕はずっと前から、一つの大きな不安を抱えていた。それは、大地震や火災といった予測不能な災害が起きたとき、自分が不在の間に、みゅうちゃんが家で取り残されて、ひとりで死んでしまうんじゃないかという恐れだった。
僕が仕事で不在の時、家にいる家族も、有事の際は子どもを助けるので精一杯で、みゅうちゃんには手が回らないのでは……と、ずっと最悪の状況を想像しては怖くて、それだけは避けたいと願っていた。
だから、今こうして「平穏に」導かれたことが、本当に良かったんだ。
シュロスバーグの転機理論で言うなら、「お別れは、さみしいことでありながらも、一生の間トータルかつ最後の最後までとても幸せに寿命を全うした素敵な卒業でもあり、完全に予測はできなかったけど、ある程度老齢化の中でぼんやり予測していて、互いの心の準備もできていて、災害などで孤独死することもなく、暖かい春になって家にも日中家族の気配がする中で、最後を迎えて、ある意味最高のタイミングで」だったと言えるのかもしれない。
暖かい春の日差しの中、静かに最後を迎え、君の亡骸は、一緒に一晩添い寝したし、ゆっくりとしっかりと、僕らに見守られ、お別れした。寂しいけど、一生もお別れも、最高に完璧だったと、誇りに思う。
みゅうちゃんが旅立ってから、ずっと毎日、ふとしたときに涙が出ていたけど、昨日はやっと涙が出なかった。
もちろん、それでもずっと、みゅうちゃんのことを考えている。思い出すたびに、胸は熱くなる。でも、もう今は涙を、すでに“力”に変えている。
これからも、たまには思い出して涙が出るかもしれない。でも、それは辛いからじゃない。懐かしさの愛情の涙だ。愛の形だ。
昨日、昼休憩に外をジョギングしながら、そんなみゅうちゃんのことをいろいろ考えてた最中、駐輪場で困っていたおばあちゃんを助けた。すごく喜んでくれた。明らかに、自分の中にふと、周りが見える「前を向き始めた力」が湧いていると感じている。ふわっと、暖かい春の日差しの中、幸せを感じた。
それは、みゅうちゃんとの18年の日々で育ててきた、大切なものたちが、こんな形で現れているのかもしれない。
「みゅう、一緒に飛ぼう」
「ありがとう。愛してる」
その言葉が、今はまっすぐに声になる。
さあ、今日は4月1日。年度初め。
みゅうちゃんが亡くなって一週間ちょうど。まだまだ感覚は生々しくて、寂しさはあるけど、新しい年度。
家族もみんな、入園・入学・進級したり、職場復帰したり、大事な転機を迎える。
僕も、みゅうちゃんとの別れという大きな転機、そして、期待していたことが起きなかった転機(人事異動)もあったが、すべて前向きに力に昇華できた。みんなの支えと、みゅうちゃんのおかげだ。本当にありがとう。
みゅうちゃんのおかげで、やっと、やっと、やっと、僕が抱えていた家族や子どもたちへの思い──僕の背負ってきた人生の十字架、人生の悲しみ──それを乗り越える“考え方”に気づくことができた。
僕はいつも全力だ。不器用ながら全力で愛しているのは自信がある。少し認知を変えるだけで、ここまで大きく行動が変わり、救われ、成長できるとは。こうやって、人は悲しみを乗り越えて、成長していくのだと実感する。
きみの力を借りながら、これからも僕も飛ぶよ。
みゅうと一緒に、強く、優しく、これからも生きていく。
これからの僕の一生を、きみと築いた愛と誇りの力で、本気で飛躍しよう。
愛してるよ。今日も、これからも。ありがとう。