おはよう。今日は久しぶりの雨だ。肌寒さもあるけれど、この静けさは心地いい。そんな朝、ふと頭に浮かんだのが、バーンの「ゲーム理論」のことだ。
人と人との会話ややりとりの中で、表面上は何気ないのに、どこかで“見えない意図”が潜んでいて、終わった後に妙な疲れやモヤモヤだけが残るようなやりとり。本人たちは無意識で、それでも何かが消耗される。そういった関係のパターンを、心理学では“ゲーム”と呼ぶ。
怖いのは、仕掛けている側も、乗ってしまっている側も、無自覚だということ。誰かを責められるものではない。だけど、どちらかが気づいて抜けない限り、それは繰り返される。そして、乗ってしまっている側ばかりが傷ついたり、消耗したりしていく。
たとえば、ふだんの身近な会話の中にも、それは潜んでいる。世間話の明るい会話。「うちは○○を習わせてて〜」「この前の模試で〜」なんて話の裏に、無意識に“自分の家庭の優位性”を示そうとしている空気が混ざっていたり。あるいは、「手伝うよ」「代わりにやっておくね」と言われたとき。もちろん善意のこともあるけれど、その中に「私はできる人間」「あなたはできていない」という、さりげないマウントが隠れていることもある。また、やたらと世話を焼きたがる人。その人がいなければ物事が回らない…そんな雰囲気を保つことで、「自分の存在価値」を感じていたり、相手を静かに支配したいという欲が隠れていることもある。一方で、いつも「私なんて…」と自分を下げる人もいる。そんな言葉が“かまって”のサインになっていて、周囲から「そんなことないよ!」を引き出すゲームになっていたりもする。
こうしたゲームは、本当に日常のあちこちに潜んでいる。笑顔の奥に、親切の影に、謙遜の言葉の中に。そしてその一つひとつに、どこか重たさや、うまく言葉にできない疲れが残る。
中でも、最近よく考えてしまうのが、“頼ることが当たり前になった関係性”で生まれるゲームだ。何かをしてもらうことに慣れすぎていて、感謝の言葉も、見返りを考える姿勢もない。周囲の人のサポートが、当然のように組み込まれてしまっている。
そして、このタイプのゲームには、ひとつ大きな特徴がある。
発言の多くが、「自分はこんなに大変なんだ」「自分はこんなに努力してきた」「生活が苦しくてどうにもならない」といった、胸の内の“辛さ”を訴える方向に偏っている。いわば、究極の“かまってちゃん”だ。誰かに見てほしい、気にかけてほしい、認めてほしい。そんな叫びが、日常会話のあちこちに忍ばせてある。だがその一方で、自分の快楽には甘く、我慢できない。お金を使うときには使ってしまう。自分の趣味や習慣だけは手放さない。周囲の支えには鈍感なまま、“助けてほしい”だけが強調される。だからこそ、支える側は知らず知らずに疲弊していく。
職場や家族など、日常的に深く関わるコミュニティにこういった構造ができてしまうと、余計に厄介だ。他人なら距離を取れば済む。でも、身近な人だと関わりを断つこともできず、感情のしこりだけがどんどん蓄積されていく。
年齢を重ねると、こういったゲームに誰も気づかせてくれなくなる。指摘されることが減り、自分自身も気づけなくなって、仕掛け続ける、巻き込まれ続ける──そんな悪循環に入ってしまうこともある。
だからこそ、意識していたい。
これは“ゲーム”なんじゃないか?と。自分は乗っていないか。自分が仕掛けていないか。
そう気づくだけで、心の疲れ方が変わってくる。そしてできるだけ、そのゲームには関わらないこと。そういう選択肢を、自分の中に持っておくこと。
今日は寄生型の話を中心にしたけれど、ゲームには本当にいろんな種類がある。マウント、依存、献身、自己卑下、支配、競争……人間関係があるところに、どんな形でもゲームは入り込んでくる。でも、それにいちいち巻き込まれなくていい。「これはゲームだ」と見抜き、穏やかに受け流す力を持っていたい。そして、自分自身が誰かに仕掛けないように、今日も自分の心の動きを静かに見つめていたいと思う。
子どもたちには、そんな大切なことを伝えていきたい。
身近な大切な存在が発する無意識のゲームなら、少し付き合うこともあるかもしれない。でも、それがいいことだとは限らないので注意が必要だ。気づかせることが容易ではないレベルの場合は、距離をとりつつ、時が来るのを待つのもひとつの手だ。
さて、今日は雨の中、車で遠方への出張。焦らず、ゆっくり、安全運転で行ってこよう。
離れていても、心は近くにある。愛する家族に、今日も穏やかな気持ちを届けたい。
バイバイ。
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