おはよう。今日は、みゅうちゃんが亡くなって4日目。寂しさはまだ消えないけど、ついに、心の中でちゃんと整理がついて乗り越えた。
この3日間、客観的な事実や過去の出来事を冷静に思い出し、何度も何度も考え抜いてきた。そして今朝、ようやくたどり着けた気がしている。心からそう思える気づきに。
それは、みゅうちゃんは「無念ではなかった」ということ。「かわいそうでもなかった」ということ。そしてむしろ、「完璧な旅立ち方だった」ということ。
それどころか、命の形として、人生の終わり方として、これ以上ないほど理想的な別れ方だったということ。
みゅうちゃんは、オカメインコという種の中でも最大級に寿命を全うした。18年5ヶ月──人間で言えば90歳から100歳に相当する年齢だ。しかも、その長い年月を、ただ生きたのではなく、毎日楽しそうに、たくさんの家族に囲まれ、僕と一緒に心を通わせながら、笑顔のような表情で過ごしていた。
もちろん、最後は事故だった。高齢化によって足腰が弱り、目も見えず、平衡感覚にも障害が出ていた中で、水場で倒れてしまった。でも、激しくもがいたような様子も見当たらず、羽ばたきの跡もほとんどなかった。高齢者のように、ごく自然な身体的限界が重なった結果、ほんの一瞬、意識を失って、そのまま静かに旅立った可能性が高い。
あれほど長く生きて、最後まで日常を楽しみ、直前まで家族の声を聞きながら、安心した暮らしの中で終えられた命。苦しみがあったとしても、それは短く、苦痛が支配した時間は、人生全体に比べればほんのわずかだったと思える。だからこそ、みゅうちゃんは「無念ではなかった」。そして、何より「かわいそうではなかった」のだ。
むしろかわいそうなのは「残された方」だ──それがよく言われる話だ。確かに、大切な存在を失った側は、寂しさや喪失感に苦しむ。けれども、それが常に「かわいそう」だとは限らないと、今回気づいた。
例えば、もし旅立った存在が、むごい死に方をしたり、明らかに早すぎるタイミングで亡くなったり、生きている間にほとんど幸せを感じられず、ろくに何もしてあげられなかったとしたら──それは残された側にとって、言葉にできないほど辛くて、後悔に押しつぶされるような経験になるだろう。
でも、今回のみゅうちゃんはそうじゃなかった。18年5ヶ月、オカメインコとしては限界に近いくらいまで生きてくれて、その間ずっと家族に囲まれて幸せに暮らし、愛情に満ちた日々を過ごしてくれた。そして最期も、大きく苦しむことなく、静かに旅立った。だから、残された僕としても、これは“命のリミットが来た”という自然な卒業だったと、冷静に受け止めることができた。
もちろん、寂しさはある。いつも一緒にいた存在を失った喪失感は簡単に消えるものじゃない。でも、それは「かわいそう」や「辛い」という気持ちとは、少し違う。ここまで長く一緒に過ごせたこと、その一瞬一瞬がかけがえのない思い出になったことを思えば、むしろ「ありがとう」「ラッキーだった」「よくぞここまで一緒にいてくれた」という気持ちの方が大きい。
僕が本当に耐えられないのは、みゅうちゃんが「無念だった」とか、「かわいそうな状態で死んだ」とか、そんなふうに思えてしまう別れ方だ。でも今回は、どう考えてもそうじゃなかった。だから僕は、ようやく「心から受け入れていいんだ」と思えるようになった。
そして、もう一つ大きな気づきがあった。それは──「順番」についてだ。
実は、みゅうちゃんにとって一番かわいそうなことは、僕が先に死んでしまうことだったと思う。みゅうちゃんにとって僕は、唯一無二の存在だった。僕の声の周波数、咳払い、歩き方、口笛、肩の感触、すべてが彼女にとって唯一のものだった。誰にも代われない存在だった。
人間で言えば、小さな子どもがまだ親を必要としているうちに親を亡くすようなものだ。もちろん、人間の子どもなら成長して大人になっていく過程で、親を失うことにある程度の準備もできる。でも、ペットとして人間に飼われた鳥は違う。年齢を重ねても、人間の助けや愛情がなければ生きていけない。愛情表現がなくなったら生きがいすら失ってしまう。
だからこそ、みゅうちゃんが僕より先に、しかも幸せなまま旅立ってくれたことは、最高に正しい順番だったと気づいた。僕が残されて寂しいのは仕方がない。でも、大人の僕は我慢できる。逆にみゅうちゃんが一人残されていたら…それこそ、本当にかわいそうだったはずだ。
僕は、日常のすべてをみゅうちゃん中心に生きてきた。若い頃は肩に乗せていろんなところに行ったし、周囲からは「肩に鳥を乗せた男」として、少し珍しがられていたくらいだったかもしれない。毎日のご飯も口移しであげて、一日中肩に乗せ、話しかけ、家族の一員以上の存在として過ごしてきた。そんな僕という、ちょっと変わった人間と出会えたからこそ、みゅうちゃんは普通の鳥には到底味わえないような、特別な経験に満ちた人生を送れたと信じている。
死後もこうして、何日も考え抜いて、愛を込めて、人生を振り返ってもらえるような鳥なんて、どれだけいるだろう。僕に出会えて、よかったね。いや、僕こそ、君に出会えて、本当によかった。
お墓の前で思った。
みゅうちゃんは、きっと「かわいそうだと思われたくない」って思うはずだ。悲しまれるより、楽しかった思い出を「懐かしいね」って一緒に振り返ってほしいと思うはずだ。
僕はこれまで、「死んだ=かわいそう」「別れ=後悔」「いなくなった=辛い」という、短絡的な感情に引っ張られていた。でも違った。みゅうちゃんの人生と死を、ちゃんと整理して考え直したとき、それは「完璧な卒業」だった。
命の期限が来ただけ。悲しむことではなく、感謝し誇るべき出来事。だから僕たちは、そっと肩を並べてハイタッチしよう。「俺たち、すごかったよな」って。
これに気づけたことは、僕のこれからの人生にとっても、命との向き合い方にとっても、大きな転機になると思う。これから出会うすべての命にも、そうやって向き合っていきたい。
ありがとう、みゅうちゃん。
君は、最後の最後まで、僕に大切なことを教えてくれた。
そして今も、僕の中で、永遠に生きている。
この完璧なまでの18年と5カ月と別れは、悲しみじゃなく、僕とみゅうの「誇り」として胸に刻まれていく。