おはよう。今日もいい天気。朝から蒸し暑いけど、不思議と心地よさもある。天気がいいと、それだけでパワーが湧いてくる。
そんな今朝も、僕は車の中で大声で歌っていた。誰にも遠慮せず、ただただ思い切り。やっぱり、朝から歌うって最高だ。
なぜ僕は弾き語りに惹かれたのか。ふとそんな想いにふけりながら、今朝も車の中で歌っていた。今日は、その気持ちを少しだけ綴ってみたい。
ピアノ、ドラム、ベース──世の中には無数の楽器がある。その中で、僕が選んだのはアコースティックギターとブルースハープ。そして“弾き語り”という表現方法だった。
ただ、僕はギターが得意なわけじゃない。もう28年になる。15歳から始めて今に至るけれど、今でも「上手」とは思っていない。でも、それでも手放せない。理由はシンプル。歌が好きだからだ。
誰かに毎回伴奏してもらうわけにもいかないし、カラオケでは満たされない。自分で伴奏しながら歌える。それだけで、十分に魅力的だた。バンドのように分業ではなく、すべてを一人で担う孤高の演奏。ギターでコードを刻み、声で旋律を描き、間奏やイントロではブルースハープで隙間を彩る。この組み合わせが僕のスタイル。いや、僕という人間そのものかもしれない。
弾き語りは世界中で見られるスタイルだ。中世ヨーロッパの吟遊詩人、日本の琵琶法師に始まり、アメリカのブルース、カントリー、フォークの文化へと受け継がれてきた。そして1960年代以降、ボブ・ディランやニール・ヤングといったシンガーソングライターの登場により、ギター一本の表現がカルチャーとして確立された。
日本では1970年代、フォークソングブームの中で吉田拓郎や井上陽水らが広げた弾き語り文化。その後のストリートライブ、インディーズ、YouTubeへと形を変えながら、今も生き続けている。今は特に30〜50代の「自分の時間を取り戻したい世代」に弾き語りが広がっているようにも感じる。
僕が影響を受けたのは10代の頃に没頭したブルーハーツだった。ロックバンドだけど、ブルースハープが鳴る瞬間にグッと心を持っていかれた。ロックもフォークも、そこにあるのは人の声と楽器の響き。その最小構成が、なぜか一番響く。
僕はDTMで楽曲制作もやる。ベースもエレキも、ピアノもドラムも打ち込めるし、録音からミックス、マスタリングまで全部一人で制作できる。でも、それでもなお、なぜか弾き語りに戻ってくる。きっとそれは、音楽というより、生き方だからだ。人間らしさが剥き出しになるからこそ、僕はそこに立ち返る。
そして、どんなに忘れても、また思い出す。それが僕にとっての音楽であり、弾き語りであり、生きるということなんだ。何度でも、忘れては思い出す。そのたびに確信する。これが自分の場所だと。
今では僕の子どもたちも音楽が大好きだ。一生懸命教えたわけじゃない。ただ、僕が大人になっても楽しそうに本気でやっている姿を見て、それが当たり前の風景になっているだけ。環境がそのまま影響になっている。それが本当にうれしい。
弾き語りは、定義しようとしても、きっと言葉には収まりきらない。でもそれでいい。自分の声と手だけで、自分の人生を奏でる営み。それが誰かのためであっても、自分のためであっても、意味があるとかないとかを超えて、ただ、そこにある。
そして今日も僕は、MUSICおさむとして、いや、一人の“修”として歌っている。意味とか、うんぬんかんぬん、そんなの正直どうでもよくて、ただ、楽しいんだ。声を出して、弦を鳴らして、自分の歌を歌う。それだけで、もう十分。それだけで、生きてるって思える。
さあ、今日もそんなことを考えながら、仕事や生活をがんばろう。今日はうっかり、必需品のノートPCを忘れてしまったけど、むしろチャンスだ。PC作業じゃない、普段後回しにしていたことに手をつける日だと思えばいい。やれることを、やれる範囲で、精一杯やろう。
そして、今日も心の中で、家族の名前を呼ぶ。ひとりひとりを思い浮かべて、愛してると叫ぶ。僕の原点であり、僕の未来でもある大切な存在に、心の中で静かに伝える。
今日もありがとう。愛してる。
バイバイ。
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