日々のことば(ブログ)
✍️「終戦の日」はなぜ8月15日なのか|ビルマから帰った祖父と、僕の命

✍️「終戦の日」はなぜ8月15日なのか|ビルマから帰った祖父と、僕の命

おはよう。「終戦の日」が8月15日とされる一番大きな理由は、1945年8月15日の正午、「終戦の詔書」が玉音放送として流れ、日本の多くの人が戦争の終わりを知った日だからだ。

ただ、歴史を丁寧に見ると、戦争の終わりには8月14日、8月15日、9月2日という三つの日付がある。だから8月15日は、すべてが一瞬で終わった日というより、日本で「戦争が終わった」と人々の記憶に刻まれた日なのだと思う。


8月14日、15日、9月2日――三つの「終わり」

国立公文書館によると、1945年8月14日の御前会議で、日本はポツダム宣言を受諾することを決めた。その内容を国民へ伝えたのが、翌15日正午の玉音放送だった。

そして9月2日、日本は東京湾の米艦ミズーリ上で降伏文書に署名した。国立国会図書館は、この署名によって日本の降伏が確定したと説明している。

整理すると、8月14日は「受諾を決めた日」、8月15日は「国民に告げられた日」、9月2日は「降伏文書に署名し、降伏が確定した日」だ。どれか一つだけが正しく、ほかが間違いという話ではない。

では、なぜ日本では8月15日が強く残ったのか。多くの人が同じ放送を聞き、「戦争が終わる」と知った、その社会の記憶が大きいのだと思う。政府も1982年の閣議決定で、毎年8月15日を正式に「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めている。一般にいう「終戦の日」は、追悼と平和への祈りの日でもある。


でも、8月15日にすべてが終わったわけではない

玉音放送が流れた瞬間に、世界中の銃声が同時に止まり、海外にいた人が家へ帰れたわけではない。戦地にいた兵士、空襲や原爆で家族を失った人、植民地支配や日本の侵略で傷つけられたアジアの人々にとって、「戦争の終わり」の形は同じではなかった。

「終戦」という言葉は、戦いが終わったことを伝える。一方で「敗戦」という言葉を使う人もいる。負けた事実や、なぜ戦争を始め、広げ、止められなかったのかという責任を曖昧にしたくないからだろう。さらに、日本の外には同じ出来事を「解放」や「勝利」として記憶する人もいる。

言葉を争わせたいわけではない。ただ、自分の国から見える景色だけを「戦争のすべて」にしてはいけないと思う。日本には、戦死、空襲、沖縄戦、広島と長崎への原爆投下などによって、かけがえのない命を奪われた歴史がある。同時に、日本が植民地支配と侵略によって、とりわけアジアの人々へ大きな損害と苦痛を与えた歴史もある。これは日本政府も、戦後50年の内閣総理大臣談話で表明している。片方だけを見て平和を語れば、祈りは自分たちだけのものになってしまう。


ビルマから帰った、じいちゃん

僕の父の父、つまりじいちゃんは、第二次世界大戦中にビルマ、現在のミャンマーへ出兵していた。戦争を生き延び、日本へ帰ってきた。その後に僕の父が生まれ、そして僕が生まれた。

以前のブログ「降伏とビルマとじいちゃんと僕」に、こう書いた。

戦争が終わったから、じいちゃんが生き延びた。そして、僕がここにいる。

これは、僕にとって今も変わらない実感だ。じいちゃんが帰ってこなければ、父は生まれず、僕もここにいない。教科書の中の1945年と、僕が今日生きていることが、一本の命でつながる。

ただ、じいちゃんがビルマのどこにいて、どの部隊に所属し、8月15日をどのように迎え、いつ、どのように帰国したのか——その詳しいことまでは、僕には分からない。もしかすると、かつて父が話してくれたことがあったのかもしれない。けれど今の僕には、その言葉を正確に思い出すことができない。


「原爆があったから僕がいる」とは言わない

以前の僕は、日本の降伏がさらに遅れていたら、じいちゃんはビルマで飢え死にしていたかもしれない、と書いた。それは歴史的に証明された事実ではなく、今の僕から過去を見た「もしも」の考えだ。

だから、原爆があったから僕が生まれた、とは言わない。そんな言い方をすれば、広島と長崎で奪われた命や、その後も苦しみ続けた人たちを、僕が存在するための理由にしてしまう。僕はそれをしたくない。

日本が降伏へ至った過程を、一つの出来事だけで説明するのも慎重でなければならない。まして、原爆が必要だったかどうかという重い問いを、僕の存在から逆算して決めることはできない。

それでも、戦争が終わり、じいちゃんが生きて帰り、命がつながったことは事実だ。犠牲を正当化しないことと、受け取った命に感謝すること。その二つは、矛盾せず、同時に抱えていいのだと思う。


帰ってきた一人と、帰れなかった人たち

じいちゃんは帰ってきた。けれど、同じ「ビルマ」という地名の向こうには、帰れなかった人たちがいる。

厚生労働省の2026年3月末時点の資料では、現在のミャンマーにおける日本人戦没者の概数は13万7,000人、政府派遣による収容遺骨数は3万1,092柱とされている。数字が大きすぎて実感が追いつかないが、一人ひとりに名前があり、帰りを待った家族がいた。

厚生労働省は今も、ミャンマーを含む地域の残存遺骨情報を求め、遺骨収集を続けている。1945年8月15日は過去になった。でも、帰れないままの人がいるという意味では、戦争が残したものは今も終わっていない。

じいちゃんが帰ってきたことを思うほど、帰れなかった人たちのことも忘れられない。僕の命だけを喜ぶのではなく、つながらなかった無数の命にも頭を下げたい。


平和教育で、戦争の止め方までは習わなかった

僕は広島で育ち、小さい頃から平和教育を受けてきた。飛行機の音が聞こえると、B29が飛んでいるのではないかと怖くなり、泣いて母の布団へ潜り込んだこともある。

戦争は悲しい。原爆は恐ろしい。命は大切だ。それは何度も学んだ。でも以前、僕はこんな言葉も書いた

長年平和教育を受け

戦争は悲しい事だと学んだが

止め方は習ってない

大人になった今も、戦争をどう止めるかという問いに、簡単な答えは持っていない。外交や政治、法律や教育など、個人の思いだけでは動かせない仕組みも必要だ。「みんなが優しくなれば戦争はなくなる」と言うだけでは、現実の複雑さから目をそらすことになる。

それでも、一人の力はゼロではない。歴史を知る。自分に都合の悪い事実からも逃げない。誰かを国籍や立場だけで憎まない。身近な命を大切にしながら、自分の大切な人だけが助かればいい、で終わらせない。

無力かもしれない。いや、力は一人分ある。


僕にとっての8月15日

8月15日は、単に「昔の戦争が終わった日」ではない。なぜ戦争を止められなかったのかを考え、亡くなった人を悼み、生き残った人から受け取った命をどう使うか、自分に問い直す日だ。

亡くなった人たちの命を、自分が生まれた理由の道具にしてはいけない。同時に、生き延びたじいちゃんから受け取った命を、軽く扱ってもいけない。

じいちゃん、帰ってきてくれてありがとう。

この「ありがとう」は、戦争にも、勝敗にも、原爆にも向けたものではない。生きて帰り、父へ、そして僕へと命をつないでくれた、一人の人へ向けた言葉だ。

そして、帰れなかったすべての人へ。日本で、アジアで、世界で、戦争によって命や暮らしを奪われた人へ。どうか安らかに。

今日ここにいる命を愛すること。違う立場の痛みも想像すること。止め方が分からなくても、考えることをやめず、一人分の力で小さな平和を積み重ねること。

それが、じいちゃんから受け取った命を生きる、僕なりの愛と感謝だ。


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広島で、家族と日常を大切にしながら、音楽と文章をつくっています。作詞・作曲から、歌、演奏、録音、映像、発信まで、自分の手で育てています。音と言葉で、人生に小さな灯りを。

松永修が運営する個人事業「言と音LIFE BASE」の創作ブランドが「MUSICおさむ」です。

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