日々のことば(ブログ)
✍️8月6日、午前8時15分。広島で育った僕に刻まれた平和の原点

✍️8月6日、午前8時15分。広島で育った僕に刻まれた平和の原点

おはよう。8月6日は、1945年の午前8時15分、広島に原子爆弾が投下された日だ。あれから81年。広島で生まれ育った僕にとって、この日は教科書の中にある歴史ではない。小さい頃から何度も見て、聞いて、歌い、考え、恐れながら、自分の人格の奥に刻まれてきた日である。

2026年の平和記念式典は、午前8時から平和記念公園で行われる。原爆死没者名簿の奉納、献花に続き、原爆が投下された午前8時15分に平和の鐘が鳴り、1分間の黙とうが行われる。その後、平和宣言、子どもたちによる平和への誓い、放鳩、ひろしま平和の歌へと続く。広島市長による平和宣言は、核兵器廃絶と世界恒久平和を願うヒロシマの言葉として、世界へ発信されている。僕も午前8時15分になったら、たとえ仕事や移動の途中であっても、その時刻を意識するようにしている。必ず静かな場所で立ち止まれるとは限らない。それでも少し目を閉じ、81年前のこの時間に広島で起きたこと、亡くなられた方々、残された家族、苦しみながら生き抜いた人々、その後の日本へ思いを馳せる。

その1分間は、僕にとって一年に一度、自分の原点へ戻る大切な時間である。


81年前の8月6日、広島で何が起きたのか

1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機によって、人類史上初めて戦争で使用された原子爆弾が広島へ投下された。原爆は市街地の上空約600メートルで炸裂し、熱線、爆風、放射線と、その後の火災によって街と人々の日常を一瞬で破壊した。

当時、広島市内には約35万人がいたと推定され、1945年12月末までに約14万人が亡くなったとされている。ただし、正確な犠牲者数は現在も分かっていない。

原爆ドームとなった旧広島県産業奨励館は、爆心地から約160メートルという至近距離で被爆した。爆風がほぼ真上から加わったことで、建物の中心部分が完全には倒壊せず、今も広島の街に残っている。

それは単なる古い建物ではない。
核兵器が現実に何をもたらしたのかを、言葉を使わず伝え続ける存在である。


広島で育った僕にとっての平和教育

僕は広島で生まれ、小さい頃から原爆や戦争について学んできた。

広島平和記念資料館へ行き、被爆資料や写真を見た。被爆体験者の方から、あの日に何が起こったのか、その後どのように生きてこられたのかを直接聞いた。教科書の文章だけでは伝わらない、生々しい人間の体験だった。

特に小学生の頃に資料館で見たものや、聞いた話は、今も強く残っている。

幼い僕には、原爆の規模や戦争が起きた複雑な背景まで理解できていたわけではない。それでも、人の体が焼かれ、家族が突然引き裂かれ、普通にあった街や生活が一瞬で消えるということは分かった。

そして、ただ怖かった。

夜、飛行機の音が聞こえると、「B29が飛んでくるんじゃないか」と本気で不安になったことがある。今考えれば、戦争が終わって何十年もたった時代の広島で、B29が爆弾を落としに来るはずはない。それでも幼い僕の中では、資料館で見た光景と、夜空を飛ぶ飛行機がつながってしまっていた。

平和教育は、子どもへ恐怖だけを植え付ければいいものではないと思う。ただ、戦争を抽象的な言葉だけで終わらせず、現実に一人ひとりの人間へ何が起きたのかを知ることは大切だ。

僕の中に残った恐ろしさは、やがて「絶対に同じことを繰り返したくない」という感覚へ変わっていった。

大人になった今も、資料館へ行ったり、被爆に関する記録を見たりするたびに、戦争の恐ろしさを思い出す。繰り返し振り返るのは、過去にとどまり続けるためではない。

過ちを繰り返さないためである。


校庭にあった被爆アオギリ二世

僕が通った小学校の校庭には、被爆アオギリ二世が植えられていた。

親となる被爆アオギリは、爆心地から約1.3キロ離れた旧広島逓信局の中庭で被爆した。熱線と爆風によって枝や葉を失い、爆心地側の幹は焼けてえぐられた。それでも翌年の春に芽を出し、被爆と敗戦の混乱の中にいた人々へ、生きる勇気を与えたと伝えられている。

その後、1973年に平和記念公園へ移植された。今も毎年種を実らせ、その種から育てられた苗木が「被爆アオギリ二世」として、学校などへ配られている。

子どもの頃の僕にとっては、校庭にある一本の木だった。でも、その木は81年前の広島と、今を生きる僕たちをつないでいた。

傷つけられても、芽を出す。
生き残り、種をつくり、次の命へつないでいく。

被爆アオギリ二世は、戦争の恐ろしさだけでなく、そこから生きようとした人々の強さも伝える存在だったのだと思う。


『はだしのゲン』を何度も読んだ

学校の図書館には『はだしのゲン』があった。多くの子どもが繰り返し読んだのだろう。本はもうボロボロになっていた。

僕も何度も手に取った。

原爆投下直後の広島が漫画として描かれ、子どもの目にも分かる形で、戦争の理不尽さや人間の残酷さ、生き抜こうとする姿が伝わってきた。怖くて目を背けたくなる場面もあった。それでも、また読んだ。

資料館の展示、被爆者の証言、校庭のアオギリ、図書館の『はだしのゲン』。それぞれは別のものだけれど、すべてが僕の中でつながっている。

戦争は、遠い国の誰かだけに起きるものではない。

そこには普通に朝を迎え、家族と話し、学校や仕事へ向かおうとしていた人たちがいた。それを想像することが、平和を自分事として考える最初の一歩だった。


「日本は戦争をしない国なんだ」と思えた安心

子どもの頃、日本国憲法には戦争をしないという約束があると学んだ。
当時の僕は、それをとてもまっすぐに受け止めていた。

「日本は平和な国なんだ」
「もう戦争をしない国なんだ」
「この日本に生まれてきてよかった」

そんなふうに思った。

大人になった今は、安全保障、自衛権、国際情勢、憲法改正をめぐって、さまざまな立場や複雑な議論があることも分かっている。簡単な一言だけで答えが出る問題ではない。

それでも、小さな僕が「戦争をしない国で生きられる」と知った時の安心は、今も自分の根底にある。

何をどう守るのかという現実的な議論が必要であっても、「二度と戦争を起こしたくない」「人の命を一瞬で奪う兵器を使わせてはいけない」という思いまで、複雑にする必要はないと思っている。


『ヒロシマの有る国で』が残した問い

8月6日を思い出すと、歌の記憶もよみがえる。

小学校の頃、僕たちは『ヒロシマの有る国で』という歌を歌っていた。作詞・作曲はシンガーソングライターの山本さとしさんである。作者自身による録音は1985年に発売され、その後も修学旅行や学校の平和学習、合唱の場で歌い継がれてきた。

歌は、短い一節から始まる。

「八月の青空に」

その先には、若い詩人や被爆者の声、国が違っても命の重さは同じだという思い、そして戦争の火種を消さなければならないという問いが続いていく。

僕は子どもの頃、歌詞のすべてを理解していたわけではない。それでも、旋律と言葉の響きは心の奥へ入り、何十年たっても消えずに残っている。

大人になってから、ふと「あの歌は本当にあったんだろうか」と思い、うっすら残る記憶を頼りにYouTubeで探したことがある。見つけた時は本当に懐かしかった。歌を聴いた瞬間、小学校の教室や体育館、あの頃に感じていた戦争への恐怖まで、一緒に戻ってきた。

歌詞の2番では、広島だけでなく、今も戦争の中で家族と暮らせず、逃げ惑う子どもたちへ視線が向けられている。
広島の記憶を、過去の広島だけで終わらせない。

世界のどこかで続く戦争へ目を向け、自分たちは何をしなければならないのかを問い続ける歌である。

【山本さとし『ヒロシマの有る国で』】

歌詞参照


『青い空は』を、青いままで子どもたちへ

もう一つ、学校で何度も歌った忘れられない曲がある。

『青い空は』。

作詞は小森香子さん、作曲は大西進さん。広島平和記念資料館の音楽・音声資料にも登録され、戦争の惨禍を繰り返さないという市民の平和運動の中で生まれた曲として、長く歌い継がれている。

この歌の冒頭も、今なお耳に残っている。

「青い空は 青いままで」

歌の中では、戦争で失われた父、母、きょうだいたちの命の重さを受け止め、それを次の世代へ伝えようとする。後半では、すべての国から戦争の火を消し、平和と愛と友情の願いを、握手とうたごえへ込めていく。

僕は学校でこの歌を何度も歌った。

そして大人になってからも、友達と一緒に何度も歌ったことがある。
子どもの頃に教室で歌った歌を、大人になってから自分の意思で歌う。同じ歌なのに、受け取り方はまったく違っていた。

幼い頃には、怖い戦争の歌として聞いていた。

大人になってからは、失われた命の重さを自分たちが肩に背負い、次の世代へ渡していく歌なのだと感じるようになった。

「青い空を青いまま子どもたちへ伝えたい」という願いは、決して当たり前のものではない。

空が青いこと。子どもが安心して空を見上げられること。友達と声を合わせて歌えること。
その一つひとつが、平和があって初めて守られる日常なのだと思う。

【『青い空は』小森香子作詞・大西進作曲】


小学生が作った『アオギリのうた』

そして、僕にとってもう一つ大切な歌がある。

『アオギリのうた』だ。

この曲は、広島市出身の森光七彩さんが、小学2年生の時に作詞・作曲した。2001年に広島市が公募した「広島の歌」915作品の中からグランプリに選ばれ、その後、学校や平和学習の場で広く歌われるようになった。森光さんは現在、広島を拠点にフリーアナウンサー、シンガーソングライターとして活動している。

曲は、被爆アオギリ二世が植えられた小学校の子どもが、平和記念公園の親木へ会いに行く場面から始まる。

「やっと会えたね アオギリさん」

校庭にある木の「お母さん」へ会い、たくさんの種から家族が増えたことを喜ぶ。資料館で見た平和の絵や、過去の悲しい出来事を忘れず、これから生まれてくる広島を大切にしたいという願いへつながっていく。

大人が作った難しい言葉ではない。
小学生が、自分の学校にある木と、平和公園の被爆アオギリをつなぎ、自分に見えた広島をそのまま歌にした。

だからこそ、まっすぐ心に届くのだと思う。

平和記念公園の被爆アオギリの前には、歌詞が書かれた説明板と再生ボタンが設置されている。ボタンを押すと、『アオギリのうた』が流れる。広島市の公式ページでは、歌詞と音源も公開されている。

僕は父親になってから、この歌を改めて聴き、大好きになった。

小さな子どもの声で歌われる言葉を聴くと、胸の奥が静かに揺れる。被爆アオギリが受け継いできた命と、森光さんが小学2年生の時に込めた願いを、自分なりに受け取りたいと思った。

僕はこの曲を、自分でもカバーして歌ったことがある。

歌いながら、自分の小学校の校庭にあった被爆アオギリ二世を思い出した。子どもの頃には分からなかった木の意味が、大人になり、父親になり、ようやく少し分かったような気がした。

【森光七彩『アオギリのうた』】

広島市公式・歌詞と音源

【僕がカバーした『アオギリのうた』の動画】


歌は、記憶を今へ連れてくる

『ヒロシマの有る国で』。
『青い空は』。
『アオギリのうた』。

三つの曲は、それぞれ作られた時代も、作者も、言葉の視点も違う。
それでも共通しているのは、過去の悲しみを過去だけで終わらせず、今を生きる人へ渡そうとしていることだ。

資料館で見たものは、長く心に残る。
被爆者から聞いた言葉も残る。

けれど歌には、言葉とメロディーが一緒になって、何十年後でも一瞬で記憶を呼び戻す力がある。

小学校以来、歌っていなかった曲でも、最初の音を聞けば、教室の空気や、一緒に歌った友達の顔、自分が当時感じていた恐怖や悲しみまでよみがえる。

僕にとって平和の歌は、昔を懐かしむだけのものではない。
記憶を現在へ連れてきて、今の自分へ問いかけ直すものだ。

自分は、あの頃に学んだことを忘れていないか。
平和な日常を当たり前だと思っていないか。
次の世代へ何を伝えられるのか。

歌うたびに、その問いが戻ってくる。


受け取った僕たちが、次に伝える番になる

2024年、日本被団協はノーベル平和賞を受賞した。被爆者自身が苦しい体験を語り続け、核兵器は二度と使われてはならないと世界へ訴えてきたことが評価された。ノーベル委員会は同時に、被爆者が歴史の証人としていなくなる日を見据え、新しい世代が記憶とメッセージを受け継いでいることにも触れている。

僕は被爆を体験していない。

でも、体験した方から話を聞いた。資料館で見た。学校で学んだ。歌を歌った。校庭の被爆アオギリ二世を見て育った。

伝えてもらった世代である。

そして、伝えてもらった以上、いつまでも受け取る側だけではいられない。自分の子どもたちへ、次の世代へ、自分の言葉で渡していく側になる。

僕にできることは、大きくない。
午前8時15分に少しだけ目を閉じる。
資料館を訪れる。
被爆者の言葉を読む。
文章を書く。
歌を歌う。

そんな小さな行動でも、記憶を途切れさせない一つの力にはなると思っている。


8月6日は、忘れないための日

8月6日は、ただ悲しい出来事を思い出す日ではない。

なぜ、あの出来事を振り返るのか。
それは、過ちを繰り返さないためだ。

子どもの頃、僕は原爆や戦争を心の底から恐れた。その恐怖は今も消えていない。でも、恐怖だけが残ったわけではない。

戦争のない国で生きられることへの感謝。
人の命や日常を守りたいという思い。
誰かから受け取った記憶を、次へ渡したいという気持ち。

それらも同じように、僕の中へ残った。81年前の午前8時15分、広島では、数え切れないほどの一人ひとりの人生が突然断ち切られた。その一人ひとりに名前があり、家族があり、夢があり、その日の予定があった。

今日、僕たちが普通に朝を迎え、大切な人と話し、仕事や学校へ行き、家へ帰れること。それは当たり前に見えて、決して当たり前ではない。

午前8時15分。
今年も僕は、目を閉じる。失われた多くの命を思う。
苦しみながら生き抜いた人たちを思う。

今日まで平和を伝えてきた人たちへ、敬意を向ける。
そして、この平和を次へ渡していく側として、自分に何ができるのかを考えたい。

今日という一日を大切に。
愛と感謝を胸に。


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広島で、家族と日常を大切にしながら、音楽と文章をつくっています。作詞・作曲から、歌、演奏、録音、映像、発信まで、自分の手で育てています。音と言葉で、人生に小さな灯りを。

松永修が運営する個人事業「言と音LIFE BASE」の創作ブランドが「MUSICおさむ」です。

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