日々のことば(ブログ)

✍️AI時代にこそ、自分の言葉を手放さないという松永流AIリテラシー

おはよう。今日は、AIの話を書く。最近AIを使うようになった人に、すでに長年AI使い倒してきた僕から渾身のアドバイスを送りたい。便利だとか、すごいとか、そういう表面的な話ではなくて、「AIをどう使うか」という話だ。

僕はAIを、かなり早い段階から使ってきた。
ChatGPTが日本に広がり始める前から、ずっと触ってきた。
当時はまだ、周りにそんなに使っている人はいなかった。

だから正直、差はかなり大きかったと思う。文章をまとめる力、整理する力、発想を広げる力、考えを構造化する力。そういうものが、AIによって一気に拡張された感覚があった。

少し大げさに聞こえるかもしれないけど、あの頃は本当に「文明を先に持った側」みたいな感じすらあった。
同じ人間でも、AIを使う人と使わない人では、出てくるものが全然違う。そんな時代だった。


◾️AIは、ただの遊びではなかった

僕にとってAIは、最初から「ちょっと面白いツール」では終わらなかった。

思考整理、文章作成、ブログ執筆、要約、構成づくり、リサーチ補助、相談相手、壁打ち、アイデア出し、画像生成、実務補助、アプリ制作や開発の補助まで、本当にいろんな場面で使ってきた。

だから僕は、AIを「少し触っている側」ではなく、かなり深いところまで使ってきた側だと思う。

便利だった、ではない。僕の一部。脳の一部。
思考や表現の土台の一部になっていた。

それくらい使ってきた。


◾️使っていない人との差は、たしかに大きかった

あの頃は、周りに「AIが気になるけど使っていない人」がたくさんいた。
よくわからない、怖い、面倒、そんな空気もあった。
だから自然と、僕が教える側になることも多かった。

誰かが文章を持ってきて、「どう思う?」「添削して」「見てほしい」と言ってくる。
そういう時、僕はAIを使って整理したり、整えたり、見本を出したりして、かなり助けることができた。

そこには、正直に言えば優位性もあった。
自分のほうが知っている。
自分のほうが使える。
自分のほうが扱える。
そういう感覚は、たしかにあったと思う。


◾️でも、その時にはちゃんと温度があった

ただ、そのやり取りは嫌じゃなかった。
むしろ自然だったし、助けてあげたい気持ちにもなった。

なぜかというと、相手はちゃんと自分で考えたものを持ってきていたからだ。
不器用でもいい。
少し拙くてもいい。
整っていなくてもいい。
でも、その人の考えがあった。
迷った跡があった。
悩んだ跡があった。
言葉にしようとした跡があった。

だから、そこにこちらが僕の生の思考力とAIの補助で手を貸す意味があった。
核にあるのは、相手本人だった。そして、相談にのる核も僕本人だった。
AIはあくまでも補助だった。

だから人と人とのやり取りとして、ちゃんと成立していたんだと思う。


◾️時代が進んで、AIは特別なものではなくなった

それが今はどうか。

若い世代は普通に使う。
子どもたちも当たり前のように使う
周囲の人たちも、少しずつ使うようになってきた。

AIはもう、特別なものではなくなりつつある。
秘密の武器でもない。
誰でも手にできる道具になってきた。

それは当然の流れだと思う。
でも、正直に言えば、少し寂しさもある。

自分だけが先に知っていたものが、当たり前になっていく感覚。
先行者としての優位性が、少しずつ埋まっていく感覚。
それは時代の流れとして受け止めつつも、心のどこかでは「ついにここまで来たか」と思うところもある。


◾️そこで、ひとつはっきり見えてきた

ここで、最近になって自分の中ではっきりしてきた感覚がある。

ここからが、今日の記事で伝えたいところだ。

もし誰かが、最初からAIで綺麗に整えた文章を持ってきたら、正直、あまり読みたいと思えない。
教えてあげたいとも思いにくい。
それならもう、自分でやればいいじゃないか。
そう感じてしまう。

これは冷たい話ではなくて、たぶん本質に近い。
AIが悪いわけじゃない。

でも、AIが前に出すぎると、本人が見えなくなる。
すると、温度が消える。
人の輪郭が薄くなる。

読んでも、心が動かない。
人が読みたいのは、整った文章そのものじゃない。

その人がどう考えたかであり、どこで迷ったかであり、何を本音として持っているかだと思う。
だから、AIっぽすぎる文章、賢すぎる文章、整いすぎた文章には、ときどき体温がない。

うまいのに、なぜか入ってこない。
そういうことが起きる。


◾️AIを使う場面を間違えると、むしろ失礼になる

これはかなり大事なことだと思っている。

例えば、大学院の入試。
例えば、採用試験。
例えば、面接や志望理由書。
そして、友達や身内、心を交わし合う場面での文章。

こういう場面で、もしAIっぽい文章が来たらどう感じるか。

悲しい、で終わらないと思う。
むしろ腹が立つことすらある。
だって、その場で見たいのは文章の上手さではなく、その人自身だからだ。

大学院や採用の場で知りたいのは、その人がどう考える人なのか、その人がどんな頭の使い方をするのか、その人が何を大事にしているのか、そこだ。

そこにAIの文章で来られても、話にならない。
人物を見たいのに、人物が出てこない。
それでは評価しようがない。

家族でも同じだと思う。
親子でも、友達でも、身内でも、心を交わしたい場面でAIの整った文章が来たら、きっと寂しい。
上手い文章が欲しいんじゃない。

その人の言葉が欲しい。
その人の反応が欲しい。
その人の温度が欲しい。
そこを外したら、いくら綺麗でも、意味が変わってしまう。


◾️教授や採用担当者たちの言葉の意味が、よくわかる

大学院の入試や就職採用試験のでは、教授や採用担当者たちが「AIを使った研究計画や志望理由は読まない」「稚拙でもいいから、自分の言葉で書いてほしい」としきりに言っている。

今僕は、すごくわかる。

あれは単なるAI否定ではない。

本人を見たいということなんだと思う。

不器用でもいい。
未熟でもいい。
でも、その人の頭で考えた跡を見たい。

その人の温度を見たい。
その人の言葉を見たい。
完成度より、本人性。

そういうことなんだ。
そしてそれは、自分が家族や友達や身近な人に対して感じることとも、かなり重なっていた。


◾️僕はAIを使っている。でも、丸投げではない

ここは誤解されたくない。

僕自身は、かなりAIを使っている。
でも、最初の核は自分だ。

僕はよく、思いの丈をそのまま超長文で入力する。
感情も考えも、自分のものだ。

最初の原液は、自分の魂だと思っている。

そのうえで、AIに構造を整えてもらう。
論点を整理してもらう。

必要な時はリサーチを補ってもらう。
つまり、核は自分、整理はAI。

この形でずっとやってきた。

だから、自分の中ではAIに丸投げしている感覚はない。
自分の原液をもとに、AIを編集補助や整理補助として使っている感覚だ。

でも、そのAIを介入させるレベル感が大事で、やりすぎると、本人の温度がなくなる。
ここが問題だ。だから、僕は長年、使いこなすことよりもそのバランスを重視してきた。


◾️本当のAIリテラシーは、使うかどうかではなく、使い分けだ

今回いちばん伝えたいのは、ここかもしれない。
AIリテラシーとは、AIを使うことそのものではない。

上手に命令することだけでもない。

どこまで自分でやるか。
どこからAIに頼るか。
どの場面では温度を守るか。
どの場面では効率を優先するか。

そこを選べること。

それが、本当のAIリテラシーなんだと思う。

人に自分を知ってもらう時の文章。
人間関係そのものが大事なやり取り。
面接や志望理由のように、本人性が問われる文章。
自分の考えや未熟さごと見せるべき場面。

こういう時は、AI感を減らす。いや、まったくあえて使わない
もはや、まったくAIを使わず生のライティングのほうがレアで価値がある。
整えすぎない。いや整えない。整えるなら、自力でAIをつかわない。

知識を盛りすぎない。
自分の言葉、自分の知識、自分の温度を残す。

逆に、情報整理、構成整理、網羅性が必要な時、時間短縮が大事な時、実務や制作や開発の加速が必要な時。
そういう時は、AIの射程をフルに使っていい。

むしろ使わないほうが不合理なこともある。
つまり、白か黒かではない。

使うか使わないかではない。
どの場面で、どこまで、どう使うか。

そこなんだと思う。


◾️今の答え

AI時代だからこそ、自分の言葉を手放さない。

本人性を守る。
体温を守る。
用途とTPOで使い分ける。

効率だけでなく、温度も判断軸に入れる。
AIを使いこなすとは、AIを前面に出し続けることではない。
どこでAIを引かせて、どこで自分が前に出るかを判断できることだと思う。

AIを使うこと自体が価値なのではない。
AI時代に、どこまで自分の言葉を残すか。
どこで温度を守るか。

どのシーンで、それを守るか。
その割合を、自分で選べること。

それが、今の僕が考える松永流AIリテラシー。
さぁ今日も、世の中を俯瞰して賢明に生きていこう。

愛と感謝を胸に。では、またね。


松永 修 – MUSICおさむ

松永 修|MUSICおさむ|国家公務員|キャリアコンサルタント|作家・メディアクリエイター/音楽クリエイター(シンガーソングライター)|IT・AI設計・コンサルタント

関連記事

最新記事
会員限定記事
おすすめ記事
PAGE TOP
ログイン 会員登録
会員登録